冒険と探検、この2つの言葉の意味することが、これまでの僕の人生における悩みというかテーマというか、とにかくキーワードだったのである。そして探検の検という字に冒険の険ではなくて検という字が使われているのが、いつぞや内田正洋氏のなにかの文章の中で指摘されてるのを読んだときよりズット気になつて居たんだが、この日曜日やっとその答えみたいなものに行き当たった。それはスウェン・ヘディンの「さまよえる湖」そうこのあいだから読んでるスエーデンの探検家、そのあとがきに荒俣宏氏が「探険は探険を呼ぶ」という稿に、まさに記されていたのである。そこで彼は次のように語っている。
ぜん(前略)ひとつの探険が、またその次の探険を敢行させる励ましとなる。そこに探険の連鎖が生まれる。探険といっても、別に18世紀に限られる訳ではない。マルコ・ポーロやコロンブス、また中国でいえば明の鄭和の昔から、歴史的な事跡はいくらでも挙げられる。けれども、18世紀半ば以後に行われる探険は、それ以前の探険と意味を大きく違えている。ひと口にいえば、冒険から探険への変化、といえるだろう。探険には、いくつかの前提条件がある。
まず第一に、科学的調査を実行しなければいけない。単に、人類未踏の地を踏破するだけでなく、その土地を測量し、地磁気を測り、動植物を調査し、現地民が住んでいるときはその人々の暮らしと文化を観察する。また古代遺跡の調査も欠かせない。こうした情報を文書にして世界に公表して、はじめて探険は終了する。だから探検隊を組織する主要メンバーは科学者や研究家でなければならない。そこで最近は、探険の意味を純粋に科学調査旅行に限定し、表現も〈探検〉とするようになった。しかし、探険には第二の条件がある。それは科学調査旅行を超えて、未踏の地へ到達しその神秘的な自然にふれて自分自身の魂が変化する神がかった体験を得ることだ。あるいは、人類も宇宙という大らかな母のちっぽけな末っ子だと認識することだ。この体験の方は魂にかかわっている。
つまり、探険とは、理性と魂の両方をかけて地上の窮極的な地点に挑むことなのである。(もっと紹介したいのだが中略)ヘディンは、古代ローマにさかのぼる多数の文献を一方に置き、机上の探険をも充分にこなした上で、途方もない中央アジアへの旅を敢行している。これはまさしく体と脳の共同作業による冒険ー真の意味にいう探険といえる。地球は広い、そしてきびしい。だが、あえてそれに挑む人間にだけ、神は宇宙と自然の秘密をやさしく啓示してくれる。
ということ、もっともっと引用させて頂きたかったのですが。また新しい人生の師に出会ったような充実の午後でした。そこで僕も一言。地球を知るには人生は短すぎる。または我々も知らない四国とか、日本とか山のようにあるのではないかな。歴史をもっと知り新しい冒険、探険の旅に出かけましょ。 きょうの1枚 モンブルでスケッチ中の山田画伯。今年のモンゴルは丁度1冊分のスケッチブックを使い切ったそーな。色鉛筆は実は水彩で、スポイトになった筆で表情をつけていきます。そのうち個展を開く!!ことになるでしょうか。
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