我が会心の一戦〜小さなクルマで大きなクルマに挑んだ全日本鈴鹿300kmレース 全日本ツーリングカー – No.298 菅原さんからの手紙 2025/05/27

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私は1983年にバイクでパリ・ダカールラリーに参戦したのを皮切りに、現在に至るまで途切れることなくダカールラリーをメインとして、海外のラリーレイドに出場し続けてきた。だから菅原義正と言えばサーキットのレースのイメージはないかも知れないが、実は1965年から1972年にわたる7年間はサーキットのレースに全精力を傾けていた。7年といえば決して長い期間ではないが、しかしさまざまな思い出がある。そして「我が快心のレース」は何かと問われたら、迷わず1968年1月に開催された「全日本鈴鹿300kmレース 全日本ツーリングカー」を挙げるだろう。

このレースに私はミニクーパーSで出場してクラス優勝、総合3位という成績を残した。レースを始めて2年ほど経った26歳の時のことだった。

このツーリングカーレースには2つのクラスがあって、私が出場していたのはツーリングワン(T-1クラス)だ。T-1クラスの車両規定は4座席・1300cc未満であったが、そこでは2座席・700cc以下の車両もツーリングカーと見做されていた。またT-1クラスだけだと台数が少ないため、排気量が大きなT-2クラスも混走していた。

私はもちろんT-1クラスの王座を狙って闘っていたわけだが、正直なところ総合順位までは意識していなかった。しかし蓋を開けてみれば総合3位に食い込んでいた。総合優勝したのは高橋利昭氏でクルマはトヨタ1600GT、総合2位は西野政治氏でいすゞペレット1600GT。

そして総合3位になった私のすぐ後ろ、4位は、羊の皮を被った狼と言われたプリンス・スカイライン2000GTだった。この時のレースにはプリンス2000GTがなんと16台もエントリーしていた。私はスタート直後からこの16台を含めた排気量の大きいクルマたちを徐々に追い抜き、最終ラップとなる35周目で前を走っていた1台のプリンス2000GTを抜き去ってゴール。3位の私のタイムは1:42:18.300、4位のプリンス2000GTは1:42:20.500だったから、2秒近くの差をつけて振り切ったのだ。まさに会心の走りだった。

その後も私はこのミニクーパーSで数々のレースに出場するが、レースを始めた当初は大学時代に買ったホンダのS600(エスロク)を相棒にしていた。それは水冷DOHC4気筒に四連キャブレターを搭載するスポーツカーだったが、排気量は606ccしかなく、1300ccとの混走のレースではどう頑張ってもパワーが足りなかった。そこで私は、当時、福生に移転してきたばかりのヨシムラにエスロクを持ち込んで、チューニングを依頼した。

オートバイレースの世界では世界的な知名度を誇るチューナーだったヨシムラと私を繋いでくれたのは、レースで知り合った田中健二郎だった。彼は本田宗一郎に認められて本田に入社し、開発ライダーを務めた男で、1960年にはホンダのワークスライダーとして世界GPにも出場したほどのレーシングライダーでもあった。が、レース中の転倒事故でライダーを引退したのち、四輪のレースに転向した経緯から、ヨシムラとも懇意にしていたのだろう。どういうわけか彼は私を気に入ってくれていて、わざわざヨシムラへ連れて行ってくれたのだ。

バイクが専門のヨシムラだったが、エスロクのエンジンはホンダ製であるのみならず、比較的バイクに近い構造だったから、ヨシムラはエスロクのチューニングを得意としていた。

しかしヨシムラでチューニングをしてもらったにも関わらず、レースでは成績もふるわず、2位や3位にはなれても1位にはなれなかった。エスロクが出場するレースではたいてい、それよりも排気量の大きなクルマに混じることが多かった。名チューナーをもってしても、606ccの排気量から引き出せるパワーには限界があったのだ。

そして「これより上を目指すなら、クルマを替えるしかない」。そう考えた私が選んだのが、モーリスのミニクーパーSだった。

 

ミニクーパーSを手に入れるきっかけになったのはゼロファイターズカークラブ(ZFCC)だった。会長に伊能祥光氏が立ち上げたZFCCはクルマ好きの有志が集まるクラブだったが、当時、私は副会長をしていた。登録している選手は50〜60人ほどいただろうか。そこからは、後のレース界を代表する選手が何人も輩出された。

伊能さんは代官山で自動車の修理工場を経営していたからチューニングもお手のもので、レースが大好きだった。その彼がレースのためにと買ったのが、ミニクーパーSだった。ところがある時、伊能さんはレース中に船橋の第一コーナーで転がってしまう。クルマのダメージは大したことはなかったが、もうこんなクルマは懲り懲りだと言う。それを聞いた私は伊能さんに相談し、ミニクーパーSを中古で譲ってもらうことになったのだ。

エスロクにかわってこのクルマを選んだのは「排気量が1,275ccもあるし、モナコのあの伝統あるモンテカルロ・ラリーで3度も優勝したクルマだし、いいなあ」と、ごく単純な理由からだった。

ところが実際に運転してみると、これがとんでもないじゃじゃ馬だと思い知たされた。FFの特性だから仕方ないのだが、アクセルを強く踏み込むとガーーっと外側に出て行ってしまうし、パッとアクセルを戻すと今度は極端に内側に巻き込んでしまう。

ミニクーパーSを買って間もない頃に、船橋サーキットでレースがあった。このサーキットはヘアピンが狭く、エスロクはテールを流しながら入っていけたがミニは難しかった。そしてレースでは、運悪く誰かのクルマから外れてコースに転がっていたタイヤとぶつかって、リタイアになった。この時は「もうこんなに難しいクルマはやめてしまおうか」と本気で考えたのだが、買った以上は何とか乗りこなそうと、手放すことを思いとどまった。

運転の難しさのほかに、このクルマにはもう一つ問題があった。とにかくよく壊れるのだ。ミニクーパーSは前述のようにモンテカルロラリーで優勝しているクルマだけあって、チューニングパーツは豊富に出ていた。だからチューニング自体はエスロクよりやり易いという面もあったが、イギリスから取り寄せるパーツ代は高価で、それを車両に組み込むのも簡単ではなく、プライベートでやり続けることにはどう考えても無理があった。

そこでこのクルマを購入し、パーツの取り寄せなどもお願いしていた黒崎内燃機工業の社長に提案を持ちかけることにした。「エントリー費は自分でもちます。クルマも差し上げます。その代わり私のスポンサーになって整備とチューニングをそちらでやっていただけないか。メカニックにとっても勉強になるはずです」と直談判したのだ。たたき上げの社長は、快く引き受けてくれた。その時から私のミニクーパーSには、黒崎内燃機のロゴが入るようになった。

 

余談だが当時、日本にはモーリス社とオースチン社の2つのブランドのミニが流通しており、それぞれ扱う会社も違っていた。オースチンの日本総代理店は日産系のキャピタル・エンタープライズという会社で、松濤にあった。一方のモーリスは黒崎内燃機工業で、この2社が売り上げで火花を散らしていた。

レースでは、著名なカメラマンにしてミニフリークだった早崎 治氏がオースチンミニのドライバーとして活躍していた。最初はオースチンミニをモーリスミニが追う立場だったが、互角以上の闘いをするようになると、モーリスミニの売り上げはぐんと伸びた。モータースポーツでの活躍がそのまま市販車の売り上げに結びつく良い時代だった。

 

話を戻すと、黒崎内燃機のサポートを受けるようになったとはいえ、この会社はもともと普通の自動車販売会社だったから、レースのノウハウなどは全く持ってはいなかった。だからメカニックも私も一緒になって勉強し、知識と経験を積み上げていった。この時、黒崎内燃機の部品部にいたレース好きの若者が後に渡英し、レーシングコンストラクターであるGRDに入社する。レーシングメカニックとして欧州のF2を転戦し、その名を知らしめた蓮池和元氏だ。

またこの会社の工場長も、独特な人物だった。ある時レースの現場で、虫歯で歯が疼くからと箸を自動車用バッテリーの希硫酸液に浸して、それをいきなり虫歯に当てたのだ。おそらく虫歯の神経を焼き切っていたのだと思うが、それはびっくりするほどの豪快さだった。私が一緒に戦ったのはそんなユニークなチームだったが、蓮池さん、メカニック、そして工場長も本当によく協力してくれた。皆で真剣に取り組んだおかげで、マシンのレベルもぐんぐん上がり、クラス優勝、総合3位というレースでの成績を得ることができたのだと思う。

 

 1968年のこの鈴鹿300kmレース、実は決勝の数日前に行われた練習走行でエンジンが故障するというトラブルに見舞われていた。この時は鈴鹿から25kmくらいのところにある津という町の、老舗旅館をチームの拠点としていた。旅館にお願いしてそこのガレージを借り受け、メンテナンスなどの作業をさせてもらっていたのだ。宿泊も食事も同じ場所でできたし、旅館のある津の駅には新幹線も停車したから、その点でもとても利便性が良かった。部品が足りなくなるとメカニックが新幹線に乗って、入れ替わり立ち替わりやってきた。

レースには工場長も来ていたから、壊れたエンジンを一緒にバラしてみると、クランクシャフトの真ん中を押さえている部品(メタル)が焼き付いてしまっていた。運の良いことに津の町にメタル屋さんがあったから、早速、その店を訪ねてみた。1月で寒かったし、すでにご飯どきたったから、親父さんはこたつに入ってお酒を飲んでいた。もう店じまいだからと取り付く島もなかったが、「そこを何とか」と食い下がっていると、それを見ていた高校生の娘さんが助け舟を出してくれた。「お父さん、せっかく来てくれたんだし、かわいそうだから見てあげて」と。親父さんはしぶしぶという感じで立ち上がったが、さすがプロだ。店の壁いっぱいに天井高くまで積まれた多くのメタルの箱の中から、ミニクーパーに合う一つを探し出してくれた。ハイラックスの前身となる日野ブリスカというトラックのクランクメタルだった。それから23年後、日野のカミオンに乗ってダカールラリーに出ることになろうとは、この時の私にはまだ思いもよらなかった。

無事クランクメタルを手に入れた私たちは早速、ガレージに持ち帰ってミニクーパーSに合うように少し加工し、組み付けて、再びクルマにエンジンを載せた。だが、それで終わりではない。レースカーとは言っても市販車がベースだったから、最低でも1000kmは慣らし運転をする必要があったのだ。

そこでまだ開通して間もない、亀山から伊賀を通り奈良県の天理を結ぶ、約70kmの自動車専用道路(名阪国道)を行ったり来たりして1000kmを走った。

こうしてどうにかレース当日に間に合った。レースには当時付き合い始めたばかりの妻が、東京から日産のサニーを運転して12時間掛けて応援に駆けつけてくれた。高速道路のない時代に、よく来てくれたものだと今でもありがたく思い出す。

ただどういうわけか、予選のことを思い出せない。予選順位でスターティンググリッドが決まったはずなのだが、覚えているのは予選を通り越して、決勝のスタートの時のことだ。このレースはルマン式スタートだったから、スタートをきれいにキメるには一工夫必要だった。

 作戦はこうだ。まず、乗り込んですぐシートに座りたいから、邪魔にならないようにシートベルトは糸で釣っておく。少しでも早くスタートするためにあらかじめギアはローに入れて、サイドブレーキも外しておく。鈴鹿のホームストレートはわずかに傾斜があるから、クラッチを切った時にクルマが滑り出さないように、クルマ留めとして後輪にごく小さな石を噛ませておく。さらにクルマの周囲を、箒で履いておく。これは今は誰もやっていないと思うが、昔はみんなやっていたように記憶している。路面はきれいだったが、それでもタイヤカスや埃はあったから、少しでもタイヤがグリップするようにという配慮だ。

ミニクーパーはイグニッションキーがダッシュボードの中央に付いていたのだが、ダッシュボードが弓なりに湾曲していて、中央が一番ドライバーから遠くなる。そこでキーにアルミの板をリベット留めして、シートベルトをしても手が届くように工夫した。いま思えば何もそんな面倒なことをしなくても配線で繋いで、手元にボタンを付ければ良かったのにと可笑しいのだが、とにかく勝つためにできることは、何でもしたのだった。それが結果につながったのだと思うし、そういう姿勢なくしては、何事もなし得ないのではないだろうか。

そんなこんなで私は「全日本鈴鹿300kmレース 全日本ツーリングカー」をクラス優勝し、思いがけず総合3位にも食い込む快進のレースができた。

最初の頃はミニクーパーSからも「お前は下手くそだからレースなんかやめなさい」「お前みたいな若造には、俺を乗りこなすことなんかできない」と怒られてばかりいたのに、この時ばかりは「よくやったね」と褒めてもらえて、それが何より嬉しかった。そしてこの鈴鹿のレースを含め、前年(1967年)12月の富士12時間自動車耐久レースと、1968年3月の全日本スポーツカー富士300kmレースで3回連続してクラス優勝したことで、私は一気に「ミニの菅原」と言われるようになったのだ。

 

それにしても自分はなぜ、こうも小さなクルマでレースをするのだろう。

当時は大学卒業後に立ち上げた会社の経営も順調だったから、お金がないわけではなかった。フェアレディ2000も3台持っていたし、2000GTやシボレーのインパラも持っていた。多い時には一度に17台ものクルマを所有していたくらいだから、大きな排気量のクルマでレースをしようと思えばできたのだ。

それでもしなかったのは、一つは自分で限度を決めようと思っていたからだろう。レースは、お金をかけようと思えばキリがない。自分で「ここまで」と決めておかなければ、金も人も手間も際限なく注ぎ込むようになってしまうものなのだ。

もう一つは小さなクルマでレースをすることにやりがいを見出していたからだ。限られた条件の中でベストを尽くす。それはどんなクラスであろうと同じこと。そして小さなクルマで大きなクルマに挑み、勝てた時の悦びは何ものにも変えがたい。

だからいつも「なぜ小さなクルマでレースをするのか?」という問いかけに対しては、こうやって答えているのだが、それにしても自分と小さなクルマとの関係には理屈以上の縁、もっと言うと運命のようなものを感じざるを得ない。

サーキットのレースから退いたのちも、軽自動車のアクティでファラオラリーを完走したし、パリ・ダカールラリーで四輪からトラックという大きなクルマに転向したときも、トラック部門では最も小さい1万cc以下のクラスに出場した。そこでは総合準優勝6回という実績も残したし、ダカールラリーにおいて日野のカミオンは「リトルモンスター」とまで呼ばれるようになった。

それだけでなく、1971年にはナツメ社から「軽自動車のすべて〜便利でスバラシイこれからのクルマ」という本まで出版している。

そして82歳になる今、私は人生最後の挑戦として、2023年のアフリカ・エコレースに軽自動車のジムニーで出場しようとしている。日本の軽自動車がサハラ砂漠を越える。それはエスロク、モーリス・ミニクーパーSから始まって小さいクルマでレースを闘い続けてきた私の人生の、集大成にふさわしいチャレンジであるに違いない。

快心の一戦を走り切ったあの日から、55年。いま私は、アフリカ・エコレース随一の難所であるメルズーガの砂丘を小さなクルマで攻略するため、地図とGoogle Earthと、睨めっこする毎日である。

 


著者紹介 菅原義正氏

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