No.0216 – Organisation Voice 2000/12/29

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さまざまな想いを抱いて生きた、ひとつの時代が、世紀が終わります。まだ幸いなことに、僕は高度成長期に青春時代を過ごすことができました。 その頃は「夢を求める」なんて言葉がなんの不思議もなく違和感もなく語れる時代の最後でした。僕は子供の頃から山に憧れていて、まだヒマラヤ登山も黎明期で、アルプス3大北陸がどーのこーのという時代でした。そんな頃、自宅の僕のほんとに小さな部屋には、月刊誌のふろくのアイガー北壁の写真が大きく貼られてました。 週のはじめは他校の友人達とすぐ近くの御幸寺山という、そう歩いても10分くらいでいける小山の中腹にあるゲレンデ(岩場)でザイルを延ばしたり、オーバーハングを流行りはじめのダブルロープ(当時はドイツ語しか登山用語にはなかったのでドッペルザイルっていうの。) で人工登攀の練習をして、週末はカブに乗って石鎚山北壁や、その周辺の岩に出掛けてました。いま思えば本当にめくるめくような日々でした。僕の秘密めいた小屋(部屋)の壁面にはエーデルリットのザイルかかり、ヘルメットやらハンマーやハーケンやボルトを吊り下げたハーネスがぶら下がってました。ホエーブスなど、登山用具を並べた棚はいま思いだしてもまるで登山史博物館のよう。目を静かに閉じれば、今でもあの暑い夏の日の岩場のひんやりとした空気や、冬の青氷にかかるアイゼンの気持ちよさ、そんなこんながきのうのことのようによみがえるではありませんか。ちょうど12月のころの低山の雑木林やブナ林のたっぷりと枯れ葉の落ちた小径を行く楽しさや早春の凍り付いた空気の中で見つける春の予感や、高い枝をザワザワとならすふるさとの山を吹く風にいつも心踊らされ胸を高鳴らせ歩き続けたものでした。ひょっとすると、あの10代のころから今日までおそらく30数年間、あのままの道を僕は歩き続けてるのかもしれません。それが僕の20世紀でした。

パリダカの頃
はじめてパリ・ダカールに出掛けたのは1988年32歳になった頃でした、まだパリ・ダカールが本当に過酷な時代でしたが、なんか、こう輝いてました。モータースポーツとか冒険とかそんな言葉では語れない、あの氷のはった岩場を登りながら静み行く夕日を見てるような、不安なような怖いような、でもドキドキする、あの少年の日の皮膚感覚がそこにあるではないですか!荒野に延びる1本の道のように陽炎の彼方まで延びるその道は、それは美しく、”そうだ、この道を往こう。我にこの道しかなくこの道を往く!だ。”と心に決めたものでした。その道は時には砂丘の彼方で覆しがたいほどの挫折となったり、時には中央アフリカを越え南アフリカの突っ端のケープタウンまで達したり、またある時はユーラシア大陸を真一文字に横切って数ヶ月前まではソ連邦の小国だったけれど、しかし 独立したばかりのさまざまな国家を駆け抜けてトルクメニスタン、キルギスタン、カザフスタン、ウズベキスタンなどマルコポーロやスウェン・ヘディンがその魂をたぎらせて冒険をした中央アジアの国々そしてタリム盆地やタクラマカンを越えて、人生で最大の旅となったパリ・モスクワ・北京のゴール、天安門広場にたどり着いたり、と。僕はある意味、素晴らしいエクスペリエンスを時代から授かった、と思っています。誰かが言った「もう地球上の全ては冒険しつくされてる。」と、そーかなあ。冒険はなにも人類が未知のものへ向かうことではなく、自らの心の中にある未だ見ぬ世界へのチャレンジじゃないか?と僕は考えた。つまり冒険とは日々の生活の中にだって見いだせるのではないか。とね。

そしてモンゴルの頃
1955年生まれの僕は、1965年ころから1975年頃まで山に登った。1985年には第1回SSERのスタートを切った。そして1995年、第1回ラリーレイドモンゴルのスタートをきった。つまり10代は山へ20代は(内緒だけどアメリカンフットボールにのめり込んでた)30代はSSERとパリ・ダカール、40代はラリーレイドモンゴルというふうに10年ずつの単位でいろいろなことに取り組んでいるのが分かる。1995年7月1日。はじめてのラリーレイドモンゴルをスタートさせたその日、ちょうど10年前の1ST SSERのその日やはじめて雪や岩に取りついた日と同じ不思議なドキドキと充実感のない混じった気分を味わった。 そのラリーの1日目、無線で届く情報は全く悲観的だった。そうコマ地図の読めない者やラリーの何たるかを知らないライダー達があまりに多いという事実だった。それでも第1回大会は30%以下の完走率ながら全日程を終えた。その後、僕は「何のために」「誰のために」「なぜ」もう一度自らの存在理由を問うべき目標などといったものに向かい合わなければならなかった。1996、97、98、99、2000、とラリーは続いた。周囲からの反対の声は年を追って高まって行くが不思議なことに世間からの反対の声は年を追うごとに低くなって行く。莫大な赤字と血の出るような資金調達の日々が続く。20世紀の最期だからこんなことも書かせてほしい。僕はこのラリーを続けていく事を決意した日から、本当に多くのものを失い続けてきたように思う。もちろんその代わり得たものも少なくないけれど。しかし日本人ライダー達が真に受け入れてくれるのかどうかは7年目をむかえる今でさえ分からない。 もう継続する、ということがギリギリの所まできているのも事実だ。こうして2000年最期の6年間僕はこのラリーの開催に命を賭し、命を燃焼させてきた。もう一度あの大地に立ちたい。もう一度この胸を、草原や、ゴビ砂漠を渡るさわやかな空気でいっぱいに満たしたい。と自らの出来るささやかな冒険、少年の日の夢の一つはゴビ砂漠でのラリーに行き着いた。

これが人生かもしれない
こう書いてみると、これが僕の人生だったように思う。もちろん生活をするための仕事もしてきたし、その仕事の中でも大いに悩み大いに苦しんで来たと思う。そしてバイクに乗るという永却の彼方まで解決していない難解な問題とこれからも取り組んで行くことだろう。ここでちょっとカミングアウト。この秋「GS!GS!」と騒いでいるさなか僕はBMW K1200LT!!をゲットした。ムカシBMWのKを買った友人に「バカか!」と罵声を浴びせF650GSでさえ「シングルなんて!」とアバれ、ながらである。しかも「あの手のバイクは」とHONDAのゴールドウイングやハーレーのなんていうのあのヘンのやつに「サムイ!」とオクメンもなくもらし、でK1200LTなのである。はっきり言って自分が分からなくなった。「ココハドコ、ボクハダレ?」の状態か?と思います。がこれにははっきりした理由が存在するのだ。それはいうなれば国産メーカーへの僕なりのはっきりとした決別なのであります。理由は複雑なので推測に任せますが、そう、いまあなたがボンヤリと思っただいたいそんなよーな理由です。そしてナニカK1200LTに21世紀のモーターサイクルの足がかりのようなものを見いだしたからカモしれません。全てのものがカテゴリーを越え、それはそれは全く異種のものがですよ。アチラのものとコチラのものがフュージョンし、そらがアチラのものよりコチラのものよりもとても良くなるというような、そんな気がします。まさに世界が、文化が経済がそうなるかのように。また21世紀お目にかかりましょう。

きょうの1枚
ハレてF650GSダカールのオーナーになった建設省改め国土交通省のワタナベさん。ウエアリングはヤマダレプリカ。クツ下から手袋まで揃えちゃいました。それと問題のK1200LT。日本のメーカーのウリは4気筒、BMWはボクサーツイン、なんて誰が決めたんだっけ!と僕はK1200RSに乗った瞬間に思った。むしろモダンボクサーならK(4パツ)の方が全然イイ。絶対にイイ。ボクサーでイイのはクルーザーぐらいだって!あっGSもいいけどね。でも国産の4パツよりはモダンボクサーがいい。(モダンボクサーなんてのは僕の新語だからね)バイクってなんだろう。バイクに乗ることってなんだろう。最近考えますね。オフロードライディング楽し、ロングツーリングまたたのし、四国のワインディングをLTで走る!これ今度マツモトミチハル氏との共同プロジェクトっすよ。


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