2009/10/07 ETAP12-13 チョモランマBC-シガツエ-ラサ

「厳戒のラサに、着いた。おじさまたちも限界。」

気がつけば放置されてしまっていた「チベット日記」いよいよラサのゴールに向けて2行程分を一気に書き進めていきます。

今回のこの「旅」は、反政府運動のかまびすしい新疆ウイグルをあとに、これまたチベット開放運動の中国政府がピリピリするラサまでの、まことに許可の難しく、かつ「本当に全行程を行けるのか?」どうか解らない、さまざまな角度から見ても大冒険の旅をしたことになります。3000kmに及ぶ道のりでしたが、そんな距離よりも圧巻の標高。5000mの峠を次々に越えていきます。ガソリンスタンドも無ければ、道路周辺の施設もありません。ただ道路だけが建設されているばかりです。それさえなければ、100年前の世界が探検に熱狂した時代と寸分も変わらないでしょう。

ラサに着いたわれわれは、2週間ぶりにビールを口にしました。レストランででてきたビールに添えられたグラスは、お猪口くらいの大きさ。カオルサンは「もっと大きいコップをくれ」といっていましたが一口飲んで、そのサイズの意味が解りました。滅茶苦茶!酔うんです。

2週間ぶりということでもなく、ラサは標高が3600mくらいなので特別どうと言うことはないのですが。。。おそらくわれわれの身体の機能が、全く異次元の順応を遂げていたのだろうと思われます。

それにしてもウラルサイドカーで走りぬいた尾上さん。全く賞賛に値します。非力なセローを選んだ長谷見さん。きっとパワーは物足りなかったでしょうけれど、誰よりも先頭をきって走り、さすがのライディングでした。

そうそうカオルサンと山口さん。本当にいろいろなところへ共に出かけた仲間ですが、二人ともBMW R1200GS Adventureを、そのマシンが持つ世界最高の舞台へと走らせて行きました。ツアンダの標高5000mの砂の峠ではこれは大苦戦しましたが、最高の旅をしていました。

三ヶ尻さんはKTMのラリーマシン。最強!でしたね。どんなラリーよりも厳しい高高度の旅にも、チョモランマBCでもいつも抜群のパフォーマンス。そして、前半に全身打撲でしばらくはバイクにまたがれなかった伊倉さんも、ラサにはバイクで凱旋しました。高山病に一番苦しめられましたね。

さあ壮大な旅は終わりました。サポート役のムッホ。TVカメラをまわし続けた石原さん。みんなの協力と最新の気配りで最高のチームとして全員が無事に完走を成し遂げました。おそらく多くのライダーたちが求めるだろうルート。

これからはもっと平和で、こうしたルートが開かれたものになっていくことを望みます。でも、ささやかながらわれわれは小さな金字塔を打ち立てたと思っています。

また次の旅で、お目にかかりましょう。

 

   

2009/10/05 ETAP11 定日-チョモランマBC

「ついに、到達。ベースキャンプだ。」

おそらくこのルートを反対向きに旅をしたら、つまりラサを出発してカシュガルに向かうとしていたら、という話だ。それは、とんでもなくつまらない話だったかもしれない。だって、このたびのハイライトであるチョモランマBCは、案外ラサからは近くて2日でくることが出来る。じゃあ、ラサからBCの往復ならどうか?というと、それも「なんだかなあ?」という感じがする。

何も自分が作ったルーとプランがベスト!だといっているのではないが、まあベストだ。

そんなふうに思いながら定日の宿を出発した。完璧な舗装路を50km、だから朝出たら30分も走らないうちに、大きな看板に出会う。チョモランマベースキャンプへの、真新しい看板だ。おそらく昨年のオリンピックの聖火リレーのときに整備されたものと思われる。

そこからBCまでは100kmのダートだ。100kmのダートと聞いても、誰ももうなんとも感じないくらい、完璧に巡礼者になりきっている。道のりは長いほうがプロセスが楽しめるのだ。巡礼の先にある目的地つまり聖地は、遠くて道のりは過酷なほうが嬉しいのだ。

五体投地こそしないけど、ボクタチは巡礼者そのものだ。

なぜにカシュガルからここまでの苦行を積んできたというのだ。
と思いながら走っているとパンラ峠だ。

「なぬ?」

自転車が走っている。それもたくさん。

バスをチャーターしてフランス人だかドイツ人だかが、5000mを超えるアドベンチャーツーリングをしている。

「なんじゃらほいな。」

なんて思わない。いや、ちょっと思った。さすがに日本の旅行会社でこれを実施する勇気はないだろう。

リスクが高いなんてものじゃない。
でもなにか、楽しそうだ。

やがて、空気が清冽になってきた。氷河から吹き降ろす空気が独特の低温を感じさせる。ベースキャンプは、テント村だ、いくつものテントが並び、中には簡素なベッドとストーブ。もちろんキッチンもある。

登山隊に貰うのだろう、彼らは結構良いダウンジャケットを着たりしている。案
外僕たちのほうが、しょぼかったりする。
「石原さんよ、そのダウン古くない?」
「うん、なるほど号の時のだもん。」
「なるほど。」
つまり20年も着込んでいる。

それぞれ思い思いのベッドに陣取り、飯を食ったかと思うとすぐに寝ることに。まるでここまでの日々が、なにかムービーのように再生されていく。5300mの夜は、空気が薄く、危険な夢を見るけど・・・充足感にも包まれていた。

本日の走行距離 93.6マイル、149.76km
ここまでの全走行距離 1786マイル 2.857.6km

疲れはピークだけど、あと2日だ。

 

 

   

2009/10/04 ETAP10 サガ−定日

「メインピストをはずして、ちょっぴりリスキーな迂回路を選ぶことに。」

サガまで来ると、チョモランマはもうすぐだ。昔は友誼道路と呼ばれ、いまは中尼道路と呼ばれる、天空の道路がある。

30歳の時にバイクでここを越えようと企画書を書いていたことがある。スポンサーがつかなかったから出来なかったけど、そんなのやれば良かったと、今でもそう思っている。当時の資料は少なく危険ながけにへばりついた路で、何とか開通したばかりだった。その数年後に日本人の乗ったバスが転落したニュースを見て、雨が降るたびに通れなくなるのかい・・・とがけの上から逆巻く濁流を見て、少し怯んだ記憶がある。

この道路はいまでは完全に舗装されて、北京からニューデリー、あっ今はなんて言うんだっけ?ムンバイ?を繋ぐ国際道路になっていると聞く。

ボクタチは、サガからラサに伸びるチベット縦断道路の酷い工事の埃を嫌って、思い切ってこの中尼道路へヒマラヤ山脈側の裾野を使ってトラバースをすることにした。

「許可の無いルートだけど・・」というスタッフに
一瞬、ブラピの7years in Tibet・・・を想像したけど、思いを振り切った。
「大丈夫じゃないかい?」
「うん、ここらは問題ないと思う。」
「でもこの路が定日への近道になるだろ?」
という簡単な会話のあと。町からメインピストをはずし大きな橋を渡った。完走しきった砂漠の道のようだ。
しばらく川ぞいに走る。

やがて、大きな峠を越えた。GPSはまたもや5300mをカウントする。しかし折からのガスで残念なことに、峠の眺望はゼロだ。峠を下ったところに村があった。入り口で武装警察が検問をしている。

「ヤバッ」
通訳が
「この先通行できないと言っています。」
この町は地図で見ると吉隆と書いている。看板もそう書いている。しかもこの町を南下するとほどなくネパール国境じゃないか。
「ミスコースしているんじゃないか?」
とボクは思ったけど、とりあえずそうは言わないことにした。
「事件があったようです。」
「事件?」
「殺人事件です。」
「こんな平和そうな村で?」
「いや、旅人が村人を・・・」
そこまで言っているのを制して
「引き返すぞ。」

何はともあれ、足止めを食う要素は排除したい。ボクタチは脱兎のごとく?そのガスに覆われた峠を目指した。それにしても吉隆という町は、ラサよりもカトマンズのほうがはるかに近いのだ。国境は不思議だ。

その峠を引き返すと、東に伸びるピストを探さなきゃならない。しかしそれは直ぐに見つかったし、看板まである。なぜ気がつかなかったのか・・自分の気の緩みを愧じた。

しかしそこからの光景は凄まじかった。まるで8000m級の巨峰にいたる氷河を慎重に進む登山隊の様相だ。車列を止めて写真を撮ったり遅い昼食にした。

やがて悲しいほどのゲートがあり、目の前の山の中腹に舗装道路があるのが見えた。
中尼道路だ。
この辺境の地に舗装路があるのは良くない。
旅人を勘違いさせる要素だ。舗装路以外何も無いのだ。
それで、その数分前の凄まじい光景を忘れ、口笛交じりに定日に着いた。
定日はティンリンと読む。新ティンリンと古いティンリンがある。
新しいティンリンに行き、登山隊が泊る宿に泊った。ほかの客(多分ドイツ人)もチョモランマを遠くに見ながら「今日は、あいつらは上がったろう。」
なんて話していた。

ボクはチョットだけ、ハインリッヒ・ハラーのことを思った。
いよいよ明日は、チョモランマBC。今回の旅の目的のひとつだ。
もちろん最終目的地はラサで、バイクによる青蔵公路の完全走破!だ。

今日の行程 187.4マイル229.84km カシュガルからの総走行距離1692.8マイル2708km

 

   

2009/10/03 ETAP9 バヤン鎮−サガ

「チョモランマBCまで、もうひと息だ。」

BMW GSはともかくとして、YAMAHAセローやウラルサイドカーで、このエリアを走り続けてるのは、まあ奇跡的なのだが全くその実感を無くしてしまってる。冒険とはおよそ言えないような姿なんだけど、あとから写真で見れば「ありゃー!」と驚くほどの秘境の旅だ。

でももうおじさんたちには、その実感が薄れつつあった。これで高度障害がなくて、コンビにでもあれば、完全に普段モード。まあ人生経験者とはこのような人たちのことを言います。

しかしよくよく考えると・・・この場所はですね。出発前のドクターの弁を借りれば「あなたたちのような(まあボクとかですが・・)健康状態で行くのは、自殺に行くようなもんです。」
ボク「・・・・・」(そこまで言うことはないだろう!という顔をしてる)
先生「・・・・・」(たぶん言い過ぎたと思ってる)

つまり心に留めておかないといけない最大の関心事は、だんだんとリスクに対して鈍感になってるのかもしれない、ということ。その慣れというのが恐ろしいのではある。しかしまあ慣れてしまったものはしかたがない、と相変わらずの高山病の頭痛の頭でぼんやりと考える。

バヤンからサガに向かうルートは、退屈と道路工事との戦いが続いた。「まったくもって楽しい部分がない。」この日は右手に巨峰群が見えるというわけでもない。石原孝仁とムッホは、遠くに見える名のありそうな山に勝手に名前をつけてる。

しかしただただ、この何もない感は、ただ事ではない。何もない、といえば燃料の話もしておかなきゃいかん。ボクの運転するBaja足のFJクルーザーには、少しだけ燃料の予備を積んでいて、航続距離の厳しいウラルと時々セローに補給する。さらに後方からやってくるわれらのアシスタント大型のトラックにも予備の燃料積んでる。ところでこの大型トラックはどこから来てるのか?というと、彼らは天津の港で、われわれのバイクとFJクルーザーを積んで、カシュガルまで走ってきていた。

天津−カシュガル間だ。まあ昔の「パリ−北京1992」でいうならば全行程の半分に近い。まあ途方もない距離だ。それから常にわれわれの後方にいたり、朝には先に出発していて「必ず後ろに居るように」と再三にわたり注意することも嬉しい?だって、いつまでたっても来ないサポートトラックよりもはるかに安心感がある。でもまあトラブル時にずっとはるか前方にいられても困る。

さすがにガル−ツァンダ−マナサロワールのルートには来なかった、というか来れなかったけど、マナサロワールが近づくと、木がつけばいつの間にか後ろにいる。それこそがアシスタンスのあるべき姿じゃないか。

そして、まだ先の話だが、ラサにゴールしたらまたまたバイクとFJを積んで、天津新港に搬入するのだ。まさに本格的に中国を一周するんだ!と思ったら
「ブーシェ」
違うんだ。彼らはかなり奥地のトラック野郎で、西安に近い寧夏回族自治区から来てたので、中国を2周?近い長旅なのだ。かれらならば、パリダカのサポートカミオンを任せられるのじゃないか?

時々はにかんだような愛想笑いを見せるけど、とにかく辛抱強い。ちょっとかなり信用が出来るやつらだ。

夕方、サガに着く。辺境の地からやってくると・・・普通の冒険者や旅人のように、ラサからこの辺りに来ると「辺境の地に来たなあ」という感慨があるんだろうけど、ボクタチは「もう随分と都会に来たなあ。」と感じる事になる。いずれにしても、禁酒は続いているし、カオルさんは禁煙の誓いをまだ守っている。

伊倉さんの全身打撲の後遺症を除けば、全員元気だと思う。あともう少しでチョモランマBCに着くぞ!!

本日の走行距離 242.08km スタートしてからの総距離 2409.28km

 

   
 
2009/10/02 マナサロワール湖−バヤン鎮

「さらば、カイラス」

朝のマナサロワール湖は、まことに厳かだ。暗いうちから石原孝仁(今回はカメラマン)とムッホ、それに三ヶ尻さんは撮影のために、裏の山に小登山。ボクも誘われたけどとにかく激しい頭痛と倦怠感。どうもこの数日は高山病の症状が顕著だ。

テントに帰ってきた彼らは、声を弾ませていた。
「すごい、すごい」と。

確かに朝の光は、もう宇宙的だと言っていい?ナンノコッチャ。

カイラスもさすがの容貌だ。丘に遮られて周囲の山が見えずに独立峰の尊厳が漂う。丘にはいくつかのゴンパが建てられていて、そのレイアウトといい河口慧海の言葉を借りれば、大自然の曼荼羅を眺めるのだろう。

カイラスと神の湖マナサロワール。古くは20世紀初頭スヴェン・ヘディンや河口 慧海らが、探検に命を燃やした。もちろんこんな路もなかったろうし、その過酷さは容易に伺える。

まことにささやかな朝食を済ませて、バヤンに向かう。今日は苦行だ。とにかく道路工事に辟易とするのだ。工事の進め方がとにかくひどい、進捗させるという考えがないから、延々と100キロも工事が続く。

それでも短い行程はまだ日の高いうちに目的のバヤンに着く。明日はなんとかこの工事中の道を迂回できないかと考える。

ここは、まさに探検隊の宿という感じ。どれくらい多くの登山隊や探検隊が泊っただろうか。しかしこれで舗装路が完成したら、冒険はなくなるかもしれない。あまりにも簡単に危険なエリアに到達出来るということは問題だが、まあそんな時代になったになら、僕らは探検を止めれば良いだけの話だ。

本日の走行距離 263.84km、スタートからのトータル距離2166.40kmあと2行程でチョモランマBCだ。

 

   
10月1日 ETAP7 ツアンダ−マナサロワール

「翼よ、じゃなかったGSよ、あれがカイラスだ。」

今回の旅もまた、20世紀の探検家たちの足跡を辿るものとなる。特にこの日向かうマナサロワール湖は、いまだに神湖として崇め奉られる。それもそのはず、いくつかの宗教の聖地のひとつ、カイラス山のふもとに広がる標高5000mにもならんとする奇跡の湖だからだ。ヘディンや川口慧海らがこの地に到達したのが100年前だ。この湖がインダスだかガンジスだかの源泉だという話で、ロプノールと並んで探険家たちの心を揺さぶったのだ。

それにしてもツアンダからの脱出作戦は酷いものだった。パウダーのような砂の厳しい上り下りのタイトなワインディング!と聞けば、おおよそ戦意を失う。特にBMWの2台には困難極まりなかった。もちろんウラルサイドカーもだ。何せ空気が薄く、少し押せば気が遠くなりそうだし、倒れたバイクを起こすと、まるでアタックキャンプからヒラリーステップあたりでも上っているかというほどの酸素不足に陥る。

120kmの苦難の道は、いきなりすばらしい舗装路になって終わった。
そこからは気分良く走ってると、左手に怪しい姿の山が見えてきた。

「え、カイラス?」
「いやあ、まだ距離的には50kmくらい先だろう?」
「でもなんとなく神々しい」

などといってるうちに、カイラスのふもとまでやってきていた。カイラスの写真は「そういえば正面から撮ったものしか見たことがないなあ」」というわけで、あっという間にマナサロワール湖に着いた。

カイラスは、チベット語ではカンリンポチェと呼ばれる。これまで登山の許可が出なかったことから一般には処女峰だと思われてる。なぜそう思うかというと、なんとなく誰か上ってるような気がしてならないからだ。というだけのことではある。

それにしても完璧な舗装路で着いたために、あまり感激が沸かなかった。凄い場所にいるというのに、1本の良くできた舗装路のためにあまたの観光地と寸分の違いすらない。そうなれば気持ちの中で「あれがカイラスだ、これがマナサロワールだ。ついに来たぞ!」と言わなくてはならない。

しかし、やっぱり僕たちはこのチベットの、とんでもないルートを逆送してるからこそそう感じるのだろうと気がつく。

天空にある、神々の奇跡のような光が湖を染めていた。湖のそばに張ったテントの中ではガスストーブが勢い良く燃えて、ボクは酸素不足が加速するんじゃないかと心配したくらいだ。

旅は後半戦に突入。みな高度順応は進むものの、やはり高度障害は気をつけねばならないと感じさせるほどに鉛のような疲労を感じるのだ。

この日走行距離 269.6km カシュガルからのトータル距離1903km。頭は重たい。

 

   

9月30日 ETAP6 「グゲ王朝遺跡に遊ぶ休息日」

「ゲゲ、じゃなくてグゲなのだ。」

カシュガルを経ってはじめての休息日。標高もここツアンダは3800m!と低い。

「低いだあ?」とお叱りを受けそうだけど、5000mで苦しんできた身体には、もう砂漠のオアシスか、荒野の繁華街か?というくらいの濃厚さ。いや濃厚なのは酸素。アフリカにありそうな宿は、狭いけど快適。朝からいよいよグゲ王朝遺跡に出かけるのだが、クルマにギュウギュウヅメになっても二人は乗れない。ということは二人はバイクで行くことに。当然アドベンチャーチームは拒否。だって、町の中までふかふかの砂の道だもの。そこで長谷見さんと三ヶ尻さんが「よっしゃ!」と。「すいませんね、休息日なのにバイクに乗せて・・・」

案の定、町から遺跡までの18kmは、半端じゃなかった。1時間もかかった。それでも到着して驚きの連続!「天空の城」とか「シャングリ・ラ」とかは、やっぱここのことだったんだろう。極彩色の仏教壁画が素晴らしいし、文化大革命で切り落とされた仏像の頭部が転がっている不気味さも、なかなか旅愁を誘う。

危険な土の階段を上に上に登っていく。数人は(ボクもふくむ)断念。口ほどにも無いとはまさにこのことだろう。さっきまで3800mなら空気が濃くて・・・なんていってたものの、急な登りにめまいにも似た症状。おそらくそう感じた数人は「これは踏み外したらえらいことになる!」と感じたに違いない。

それにしてもこの宮殿が栄えてた頃は、王に呼ばれて山上の楼閣まで行ったり降りたりしてるうちに転落死した者も少なくなかったろう。こんな遺跡が残ってることが奇跡だなあ。

ここが必ず中国式の観光地化されて、きっと魅力をなくすのは時間の問題だとボクは悲しい。大量の映像を撮ってきた。@「ここにハイビジョンカメラがはいったのははじめてじゃないかなあ?」といいながら重たい三脚をかかえて降りてきた。

今日はカオルさんのお誕生日。今日から公約の禁煙開始。まあ、そのうち吸い始めることでしょうがね、本人の鼻息は荒い「男に二言は無い」とか言ってる。

 

   
 
9月29日 ETAP5 「ガル−ツァンダ」

「秘境ツアンダへ。本当に凄いところだ。」

やっと許可も揃って朝の11時の出発。まだ舗装路がしばらく続く。この調子ならシメシメ・・と思ったのもつかの間。道は大きく右にそれる。いきなりハードなピスト。川も渡り、ぐんぐん高度を上げていく。ところがこの道はツァンダとガルを結ぶ観光道路でもあり生活道だ。ランクル80が観光客を乗せて行き来するのだが、まあそんなところではないよ、はっきり言って。トラックが完全に道をふさいで立ち往生していて、でも高度計を見れば5000mになろうとしている。観光客はすべて中国人。観光というよりも完璧な冒険旅行だ。日本の旅行代理店ならそのリスクのあまりもの高さから、客をこんなところに連れて行く真似はしないだろうと思う。

やがてトラックは移動したので、その横をすり抜けると空の青さが尋常じゃないことに気づく。高度5330mの峠。「なんだチョモランマBCより高いじゃない」と、チョモランマの標高5250mが最高到達点だと思ってたわれわれは、少し拍子抜け。それでも地上の酸素の50%しかないこの高みは、あまり長居をしたくないのではあります。峠から左右の山に伸びる稜線は広々としていて雄大で「トライアル車持ってきて、あの山の頂まで行くと6500mくらいあってバイクの世界最高到達点の記録が作れそうだね。」などと呑気な話をしながら峠を降りると、再び登りはじめる。こうした峠越えを繰り返しているうちに、恐ろしい形相の谷の隘路に下りてきた。

その姿は「土林」というのだ。巨大な土の鍾乳石みたいなものが林立している。道はフカフカ。はるか前方を行くBMW には厳しいことだろう。後で聞くと「何度もこけた」そうで、過去3年間のシルクロード遠征の中でも、おそらく最も辛い行程になったろうと思う。

それでもまだ日が傾きかけたころ、ツアンダの町に入る川にかかった大きな橋についた。カメラを振る石原さんに「あなた世界中の秘境という秘境には行ってるけど、ここはどうよ。」と話を向けると「いやあ、ここはすごいよ。」だそう。

観光開発されそうな予感に気分が悪くなるけど、気がつけばこの町は標高3800m。なんだ空気濃いなあ!と異口同音。

この日の走行距離257.44km この日までのトータル1633.6km問題点、特になし。でもこの町から脱出するルートが不安。明日は休息日。幻のグゲ王朝遺跡に行くのだ。

 

 

   
9月28日 ETAP-4「班公措湖−ガル」

「たぶん、世界で一番高い町。村じゃなくてね。」

実は今日はラクチンな1日。湖を周回するようなゴキゲンなダートも15kmほどで、出来たばかりの舗装道路。いったいこんな奥地を舗装してナンのコトダ・・・と訝しがりつつも、オフロードライダー実は舗装好き!を地で行くようにみんなご機嫌。特にBMWの2台なんてはるか雲の彼方。しかも140kmぽっちの道のりで、西チベット最大の町ガルに到着!!途中で長谷見さんがパニアケースを落っことしたりと、相変わらずハプニングは続きますが。しかも落っことしたところに軍のオジサン。自分のジャケットを上にかけて隠しているのであります。まあボクは気がつかなかったのですが、となりの石原さんが「おや、Jマーク?」そう、隠したつもりですが、わずかに見えたのです。キキキキキーッ(ブレーキ)ブォンブォンブォン(バックの音)

「ああ、ありがとう。これ僕たちの!拾っていてくれたんだ(もち日本語)」
「・・・・・」
「ありがと、ありがと。じゃあ再見!」

と無事に回収。おじさんは、ビックリするような高価そうな落し物を手に入れることは出来なかったのでございます。

ともかく、ガルの町に到着してみると、最初は山にへばりついた寒村だと思っていたのだが、なかなか大きな町だ。ガソリンスタンドでは200円/L近いガソリンも、スペアタンクやジェリ缶には入れてくれないのだ。そこでクルマからドラム缶に移し変えて、またクルマのタンクを空にしてガソリンスタンドへ行こう!なんて案も飛び出す始末。でも却下。

でも何とか手に入れてきて満タン御礼。ここで問題が生じた。サポートカーとトラックの運転手の通行許可がここまでしかないという。今日と明日の午前中でなんとかしよう!ということになって、早い午後からホテルでゴロゴロ。久しぶりのホテルで、トイレも水洗。良いんだか悪いんだか・・・・・

そして日暮れの時刻に、町まで散歩。近くのイスラム料理の店で、シシカバブーと羊の肉の大皿料理。最後にパスタのようなものを入れてラグーなメニュー?まあ大満足でした。地元の若者たちも近くの席で盛り上がっていました。でも標高は4300m。こんな高地にこのような大きな町があることにも驚かされましたが、ホテルの3階の部屋の登りのたびに肩でセワシイ息をしているオジサンたちでありました。

本日の走行距離 約143km、スタートからの累計1376km。街の標高4300mとホテルの部屋は3階だからプラス15mくらい。

今日はみなさんゴキゲン。高度順応は順調!!明日は礼達。

 

 

   
9月27日 ETAP-3

「パリダカのよう、そんな話をしながら走った。」

とにかく毎日のことだが雲ひとつない青空に驚かされる。もちろん今朝も快晴だ。ウイグルの砂っぽい空とは全く違う。空を見上げただけで心が沸き立つ気分だ。

だが、今朝は軽い高山病の症状で後頭部が痛い。それもそのはず昨晩の宿は標高4200mあった。いつもは大きな呼吸をしていても、睡眠中は呼吸が浅くなり朝方は少し酸素が不足した感じだが、目を覚まして深呼吸をすれば、落ち着いてくる。

このあたりは完全に軍が掌握していて、普通に暮らしている人の姿もなければ、建物もない。まあいわば真空地帯のようなところ。軍隊のブリーフィングをしているのを眺めながら、ゆっくりと準備をした。沢山の給油用のトラックが整列している。道路と燃料、軍がインフラを支えているのだ。

われわれより先に軍の給油用のトラック部隊が出発して行った。これに追いつくと追い越すのには骨が折れる。パミール高原に広く美しいダートが伸びている。遠くに軍隊のコンボイの砂煙が上がるのが見える。道は快適で100km/h超で走行が出来る。標高5000mだってマシンは快調だ。カオルさんはしきりに、悩んでいる。常識的にはこの高度で考えればこんなに走るはずはない、というのはみなの共通した考えだが、現実はそうではない。良く走るのだ。

5000mの峠には湖があって、群青の空を映していた。建物が水没しているのはモンスーン期に降った雪融けの水だろう。このあたりは夏場に雪が降る。峠には粗末だが飯屋がある。中ではチベット人の男女が麻雀をしていた。こんな場所にも人の営みがある。

峠を越えたあたりで「伊倉さんがぶっ飛んだ!」という無線。はるか正面にオレンジ色のウエアで横たわる姿が見えた。このあたりは、緊急事態に非常に弱い場所であることは言を待たない。病院など何日走ったところでない。伊倉さんは脳震盪を起しているようだが、それだけではないようだ。高度障害によって走行中に一時的に意識を失った可能性がある。

クルマを寄せ酸素のチューブを取り出して、酸素吸入をはじめて10分。顔に赤みが戻ってきた。意識はあるのだが記憶は全くない、これは脳震盪特有の症状名のだが、どうも微妙に違う。

しばらく行くと次はカオルさんがバイクを止めて倒れている。意識が遠くなったのでバイクを止めたのだという。同じように酸素吸入で蘇った。

2人は夜にはガモフバッグに入れて高山病の治療をしようということとした。おまけにこれを機会に、あのヘビースモーカーのカオルさんは、禁煙の誓いを立てた。

今日はキャンプの予定だったが、鳥の楽園といわれる班公措湖には軍の建てたホテルがあった。出来たばかりのホテルだった。この湖にしかいないという鰉魚が料理に出てくる。100年物だと見せてくれたのだが、話が大げさすぎる。ただこの魚は西大后の食卓にはいつも上っていたという話を聞いたことがあった。白身でたおやかな味だった。

ガモフバッグは深夜まで大活躍していた。

この日の走行約450km、スタートからのトータル約1506km本日の最高到達地点5248m、宿泊地の標高4260m

今日一番ご機嫌の悪いのはクラッシュして全身打撲中の伊倉さん。かなり体中が痛いみたい。高山病症状は2名 伊倉さんとカオルサン。カオルサンは誕生日から禁煙をすると発表! 

 

   
9月26日 ETAP-2 「麻礼じゃなくて庫地−大紅柳灘」

「尾上さんたら!」

ボクは妙に勘が働く。松山港で積み込んだウラルの鍵を預かり、財布に入れた。

ここなら絶対に鍵の紛失はないのだ。ところがなぜだか、ウラルの鍵のことばかり気になる。いつも財布を開けては「おお、あるある。」でもなぜかまだ心配だ。ウラルのオーナーの菅原さんにTEL「ウラルのスペアキーありませんか?」菅原さんの記憶も曖昧なよう。

カシュガルで尾上さんとその鍵の話になり「合鍵を作りに行こう」と、職人街へ赴いたものの、どーも出来るところがなかった。

昨晩の庫地の招待所は半地下で、温かくて快適だった。良く寝た。標高も2900mで、快適。朝もすっきり目が覚めた。さて今日はK2が眼前にせまってくる(はずだった)の1日。昨日の行程は100kmばかり足りなかったが、おかげで1000m以上低い土地で寝ることもできた。

さあ出発だ。北京時間だと9時なのだが実際にはまだ7時くらいの朝、2時間の時差があるべき経度なのだ。

尾上さんがなにやら探し物をしている。

「おかしいーな、鍵がないんだ。」

「やっぱり」なぜかボクはそう思った。このウラルの鍵はなくなる、そんな確信をこの数ヶ月持ち続けていた。その感覚は、誰に言っても分かるまいと思った。

「でもバイクのところとこの招待所のベッドまでのわずかな距離ですよ。」

「そーだよなあ・・・」

そして30分後には、配線が取り出され、止まるたびに2本の線を結んだり繋いだりの旅が始まった。途中でカプラーをつけたのだが、どこかで止まっている時には近所の子供がこのカプラーを繋いで

「尾上さん、ライトついていますよ」

「おかしいなあ・・・」

という始末。とまれキーをなくした尾上さんは、少しだけしょんぼりとしたものの、今日からはじまる5000mの峠越えを目指して元気に走り出した。

ところがスタートしたところの1kmばかりにある検問所は、ただいま朝食休憩中!10時30分までクローズ!とかっていわれて「なら、こんなに早く出かけなくても。ゆっくり寝てるんだった。」と誰もがそう思ったのだが口には出さず、ぼんやりと過ごす。ボクはスケッチブックを取り出して、ちょいスケッチ。

この日22時に、大紅柳灘の招待所に到着。予定の鉄龍灘はまだ100km先だ。このあたりは完全に中国軍がコントロールしている。国境が不安定な地域だ。今日も招待所に潜り込んで、深い眠りにつくことに。

本日の走行209マイル、トータルは489マイルだ。今宵の標高は4200m。

 

 

   
9/25 ETAP-1 カシュガル−麻礼

「不穏な新疆から、青蔵公路がはじまる。」

サポートの3名(黒川、杉村、青木)はTIIDA(NISSAN)に乗って、ボクタチの後方をぶっ飛んでくる!!運転手はほとんどの誰よりも日本語の上手いウイグル人の大酒のみのイスラム教徒。「そんなに酒飲むイスラム教徒は見たことないぞ!!By石原」その男日本の大学で日本史を研究していたというからビックリ。聖徳太子の大化の改新あたりをなにやら話していたけど、誰も相手にしないので「毎日が地獄です」とプリントされた赤いTシャツを、もう何日も着ていてなかなか陽気です。

カシュガルから東へ。シルクロードのオアシスのひとつヤルカンドで農村食堂?で昼飯。相変わらずの辛い中華。ここまでの舗装路はウラルが少し置いていかれそうになるけどまあ良いペースです。この町では先のウルムチの騒乱の指名手配犯の捕り物があって道路封鎖中!公安だらけの町になんだかなあ。

気を取り直して走ることしばし。今回の青蔵公路スタート地点のカルギリクに到着。公安に「許可書のコピーを取ってこい!!」・・・これは完璧なイジワル、ボクが停止を振り切ったからコンナコトニ・・・と言われてコピーを探す探す。コンビニがあるわけじゃなく、時間ばかりがすぎていくのだ。それでもコピー機があるんだねえ。

カルギリクではすったもんだの数時間を過ごして、サポート部隊と別れて、ついに走り始めたときにはもう夕方の気配。日は西に大きく傾いている。

まず一つ目の大きな峠越えの危険な山岳道路に差し掛かりました。高度計は4995mを指しています。足元は千尋の谷。「おお、こんな感じ、冒険ってのはまさにこんな感じよ」とインディ・ジョーンズ気分!!なんて走っているうちに、日が暮れて予定の麻礼の手前にある庫地の集落に止まることにした。この招待所が実に楽しいのだ。半地下の建物は暖かい上、ここの標高は2900m。麻礼は4200mなのだから「ここに泊ったほうが高度順応上も合理的だし」と、それは狭いスペースに設えられたベッドに潜り込めば、目くるめく大冒険と美女の夢でもやってこようというものだ。

この日走行448.48km、高点4995m、宿泊地「庫地」2900m高度障害は報告なし。マシントラブル関係なし。メシ・・中華。どうしてどこへ行ってもトマトと卵の炒め物が出てくるのかが謎。最も楽しそうな人・・伊倉サン。ちょっとご機嫌斜めの人・・ボク。ガイドの態度が気に食わない。疲れている人・・ナシ

心配事・・サポート部隊は無事にカシュガルに帰りついたかしら。

   
9/24 ETAP-0 その2日目

「スタート前夜も、さすがに百戦錬磨のつわもの、緊張感はゼロ」

カラクリ湖の朝は、凍てつくような寒さ。この先の行程が不安になる。「3600mで氷点下になるのなら4000mとか5000mとかって・・・・・」ともかく高度障害を克服したおじさんたちは、早くカシュガルに帰ってマシンの準備をしなければならないのに・・・呑気だ。今は寒さの心配に心が奪われている。

おそらくこの人たちの、この部分に救われるだろうなあ。などとぼんやり考えていた。とにかく彼らはまだ自分たちのバイクに対面していない。信用をしていてくれるのだろうが、反対の立場なら不安だ。

カシュガルまで戻るバスの中、山を降りるほどに暑くなる。まあそれはそうだろダウンジャケットにフリースである。ともかくもこれらを脱いでTシャツに。と思ったらこれがまたパタゴニアの暖かいロングスリーブ。こんなに暑くなってくると、今朝の心配「寒さ」のことなんか忘れてしまうから人間というものはだらしがないと思う。

カシュガルのHOTELの近くにあるレストランで昼食を済ませ、マシンのピックアップに向かうことにするのだが、気がつけばビールを口にしているおじさんたち。バイクのことは心配ないんかい!?それでも天津から長躯運ばれてきたマシンは、しっかりと道中の汚れは染み付いているものの、全て快調。みな1発でセルも回るしね。おじさんたちはやはりその道の求道者?バイクを前にさすがに目の色が変わった、いやそんなに変わってないか。

ボクはFJクルーザーにジムニーのリアシートをセットアップすることに。実はムッホと3人で乗るので後部シートをつける。本来はランドクルーザーを3台用意させていたのだが、1台キャンセルしてあった。屋根にはガモフバッグと緊急用の大型のテントを積んだ。これは夏のトムラウシの教訓?!天候の激変に耐えるオペレーションのためだ。

プロフェッショナルレーシングドライバー(ナガッ!)長谷見昌弘さんは、NEWセロー。BMW R1200GSの純正パニアがステイごとリアキャリアに着くという垂涎の改造。しかもこのパニアは内容量でサイズが伸び縮みする。もちろん元GSライダーの長谷見さん、バイク売る時に売らずに取っておいた、まあいわゆる「取っておき」のケース。今回は楽なバイク&パッケージングで道中を楽しもうという目論み。大人の選択というところだろうか。

ところで今回お手伝いにカシュガルまでやってきたスギチャン。新型インフルエンザ騒動の張本人。高山で新型インフルエンザって、生命のリスク高すぎ!!なので本人も心配することしきり。彼は在宅酸素医療を専門とする医療従事者。ADICという会社の創業者で現会長。大学時代に起業したというので、案外と年は若いが苦労人?である。いや苦労人というよりは、遊び人?のようだが移動中に読んでいる本は「中国の歴史解説書」のようなやつ。ボクは彼の勧めもあって全員で高山病の専門医の診察も受けたし、酸素圧縮機やらボンベやら、パルスオキシメーターやらの供給を受けた。

あんにはからずや道中これらが大活躍。FJクルーザーには酸素発生装置がセットされ、常にフル充電で2時間の酸素を毎秒2リットル供給できるのであります。もち電源を繋いどけば24時間酸素をふんだんに供給!!なんとボクは運転中にこそっと吸うのでありました。「いやあ、さっぱりする」のであります。

さあ、明日はいよいよ出発。そして明日から禁酒。果たして依存症気味のカオルさん!酒Powerの尾上さん、三ヶ尻さん。大丈夫なのでありましょうか。それではとカシュガルの夜は、怪しいお酒に深酔いを続ける彼らでありました。スタート前夜だというのに何の緊張感もないおじさんたちはさすがに大物?なのかしら。

   
 
   
 
 
2009/09/23 ETAP-0


「カラコルムハイウエイで、カラクリ湖へ。」

カシュガルはまだ夏の余韻の中だ。

1992年のパリ−北京の時に訪れた時も9月の半ばだった。

今回同行を頼んだ石原孝仁は、あの時VIVIOで闘っていた。日本の軽自動車でシルクロードを探検したのだ。そのラリーはキルギスの首都ビシケックから標高3800m、国境のトルガルト峠を越えてカシュガルに下りてきた。

今回ボクと石原の2人が乗るのはスーパーチャージャーが仕込まれ、Bajaをも走れるスペシャルな足回りが驕られたTOYOTA-FJクルーザー。そう横浜の松野氏のラリーマシン。急遽参加できなくなった彼のマシンにチョモランマを見せてやるのだ。

しかし中国国内の免許はボクしか用意されていない。運転免許費用が、これまた馬鹿にならないくらいのビックリプライスなので、「しゃあないなあ、ボクが運転するか?」ということとなった。

あの時のカシュガルは、ポプラ並木と砂埃舞うロバ車の行き交う、まさに絵に描いたようなシルクロードのオアシスだった。あれから17年。世界は変わった。中央アジアのいくつかの国々は民族が自決し単独国家を勝ち取った。中国もまた変わったと言えば変わった。それは一国二制度やら、香港の返還などによる、清朝末期の混乱とその苦い過去との決別の日々だったろう。

しかしそれらも全て良い話ばかりでもない。新疆ウイグルは、中国のひとつの自治区のまま残った。その先に向かう青蔵自治区、カシミールの国境不確定地域(これは中国以外の主張だが)、何がしかの不安定感は、その国家が見せるもう一つの醜い表情だ。それはまた旅人には、大きな不安の影を落とす。しかしまあ、そんな不安定感もまた大きな魅力だと思う自分がいる。さて今回はどのような旅になるのか。戒厳の道のりに踏み出すことにした。

10人の旅人の紹介はこの先、1日ひとり!のペースで進めていくことにしよう。

とにかくボクらは今、カシュガルのホテルでバスに乗る準備をしているところだ。

カシュガルからパキスタンに伸びるカラコルムハイウエイと呼ばれる道路がある。

ハイウエイと聞けばまるで高速道のようだが、実はこの「ハイウエイ」とは標高が高い!のハイ、なのである。当初の予定ではこの日はカシュガル観光、特に旧市街など中央アジアに残る文明の興亡の歴史を見ておきたいと思ったのだが、多くの方から「ルート設定が高山病について考えていないのでは?」というサジェスション。そこでボクは「ここはひとつ最終の高度順応」と考えるに至った。

有数の観光地カラクリ湖までは190kmあまり。標高は3600mを越える。湖の周りはムスターク・アタ山など7000m級の秀峰が眺望できる。バスにガモフバッグと携帯用酸素圧縮機を積んで、正午前に出発した。

昼食は道筋のウイグル族の村の屋台で、と決めていた。この地ならではのナンが上手かった。ムッホはシシカバブーを「そんなに食べるの?」というくらい食べていた。

マイクロバスはコースターだった。大きな音と共にタイヤが1本バーストした。

ああこれでスペアタイヤはないなあ・・・まあいいか。などとぼんやりと考えているうちに、山道はどんどん険しくなり、雪を頂く岩峰群が威圧的な迫力で示威するのだ。神聖な岩山を削った隘路は、落石のことを考える人は通らない方が良い。リスクマネジメントは、かなりラインを下げなければ成立しない。「まあ少々のことは・・・」というくらいだ。

ボクはバスの中ですっかり寝込んでしまった。就寝時には呼吸が浅くなる。つまり血液中に取り込む酸素量が低くなる。すると高山病にはかかりやすい。

「着きましたよ。」

と起されたボクは立ち上がって驚いた。それは目も開けられないほどの強烈な二日酔いの症状。ああ今書いていても、目が回るわい。

深い腹式呼吸を繰り返し、パルスオキシメーターを指先に挟む。65で点滅している。通常平地では96から99が標準。85を切るのは危険な状態なのだ。ボクは直ぐにも酸素吸入をしないと死んじゃーう!ような数字。

それでも呼吸法で75くらいまで数値が戻り、見渡す湖の凄絶さに息をのむ。

トレッキングに行く!という尾上さん(ウラルサイドカーで参加する本編のまあ主人公のような人)は、元気いっぱい。

3000m級でいきなり高山病の症状の露呈したボクには、先行きの不安が重苦しく圧し掛かってきたのだ。それでもみなを集めてガモフバッグなどの使い方講習会を実施。バッグの中に入ると2000mほど高度を下げた時と同じ状況になる。今ボクタチは3600mにいるんだけど中に入った青木さんって、いま1600mにいる状況なんだ。なんだか気持ち良さそうなこと。

そんなこんなで世界の辺境の地での凍てつくような夜の帳が下りていきましたとさ。