No.023「ブエノスアイレスより」- 2009/12/22 菅原さんからの手紙

letter_023_20091221_01 26時間も飛行機に乗ってブエノスアイレスに着きました。

今回はダラスでのトランジット(昨年はアトランタ)で、ダラスからは少しは、空席があるかと思ってましたが、東京から全席満席です。

日本の真反対にアルゼンチンがあると聞いていたのですが、あまり真剣に考えておりませんでした。

今回、良く考えてみたら緯度のNをS、経度のEをWに置き換えて東京の数値を入れるとブエノスアイレスの近くになり、納得です。

今回のホテルは車好きにはとてもお洒落ですよ。

ロビーにはバイクのエンジンのカバーが貼り付けてあったり、昔のガソリンスタンドの 給油ポンブや古い車関係のポスターなどが飾られております。

写真は真夏の街で見つけたクリスマリツリーです。
菅原 義正

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No.022「ガストンさんと初孫」- 菅原さんからの手紙 2009/11/12

letter_022_20091111_01 山田さんへ

懐かしい写真を送ります。この年は長崎のハウステンボスを出発して、宗谷岬を経由して東京タワーの下の東京プリンスホテルにゴールでしたね。

ガストンの優しさが写真に写ってます。お鼻が骨折してないので出発前に私の自宅で写した写真ですね。

話は変わりますが、来年のTBIの参加者に共同通信の方が出場するのでヤマハWR250の改造中です。少しづつですが、山田さん主催のイベントが今になってやっと花が咲いてきたようなきがします。

嬉しいですね。

今日の一言
「言い訳がうまくなるほど、向上への道が閉ざされていく。」

菅原 義正

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No.021「いよいよです」- 2009/10/29 菅原さんからの手紙

letter_021_20091028_01 10月29日に日野自動車さんの本社にて、報道の皆様に集まって頂き、2010ダカール・ラリー出場の発表会が行われます。

今年も全国の販社さんから応募のあったメカニックさんを4名選ばせて頂きました。選ばれた皆様は日野の本社で毎日、車両作りで大忙しです。

何とその中には「北海道4DAYS」でお世話になった「北日本自動車大学校」の卒業生がおります。(同校の卒業生では2人目)

応募資格は日野さんの独自の資格であるHS-1を取った人に限られており、頑張っても入社後10年はかかる難しい資格なのです。

話は変わりますが、今年、ラリーレイドモンゴルにコロンビアから出場されたグスタボさんの御兄弟の会社が次回のダカールに新しいスポンサーさんになって頂きました。

ラリーレイドをやっていると、このような素晴らしい人達との輪が、どんどん広がり嬉しい限りです。

2日前にもカナダから来年のラリーレイドモンゴルにバイクで出たいとテルを訪ねてお客様が来てました。(ローレンスさんの紹介だそうです)

業務連絡です。10月30日の朝の「みのもんたさんの番組」に我々チ−ムの発表会の様子が映るようです。時間があったら見て下さいね。

写真は2009のスタート前です。

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No.020 「篠塚建次郎さんありがとう」- 2009/10/22 菅原さんからの手紙

letter_020_20091022-01ラリーが始まる前に山田さんから「篠塚さんにカミオンバレーのドライバーとしてお願い出来ませんか? 」とのお話があり、実現したら素晴らしい事で、私にはそんなアイデアも浮かびませんでした。すっかりご無沙汰しているので携帯の番号すら分からずに友人に聞き、電話するのですが、何度かけても繋がりません。

結構ラリー開催が近づいた頃にやっと繋がりました。彼はフランスに行っていたようです。パリダカの日本人初の総合優勝者にカミオンバレーの運転をお願いするのは勇気のいる事でしたが篠塚さんは考えてみたいとのご返事でした。その旨を元報知新聞の中島さんにお話して、中島さんからもお願いをして頂き、今回の事が実現したのです。

他のラリーレイドを色々と知ってますが、優勝者が最後尾を走るのは聞いたことがありません。最後の決め手は山田さんからのお願いでした。

ラリーを知り尽くしている篠塚さんの活躍には参加者の皆さんも、驚かれたり、安心したりで動揺されたと思います。

最後の表彰式にプレゼンテーターとして、おひとりおひとりに丁寧に声をかけられて賞品をお渡ししている姿に感銘を受けました。お人柄を感じた一瞬です。

若い参加者は感動してました。モンゴルの選手もそうでした。ご苦労様でした。そしてありがとうございました。

 


 

「衝撃を吸収してくれたホィール」

2006年のラリーレイドモンゴルでの写真です。車両はヤマハライノ。私の不注意で岩に前輪をヒットさせました。この種のタイヤの空気圧は決められており増減出来ません。それにしても結構派手な壊れ方ですね。

スペアータイヤに交換して走り出し、キャンプ地で写した写真です。

ライノの車輪ですが、前輪と後輪のタイヤのサイズ(幅)が違い、後輪が太くなっております。

スペアーを持つと2種類のタイヤが必要です。後軸に掛かる重量を計算して、後ろ側を徹底的に軽量化して前軸と高軸の重量バランスを同じにしましたが、まだ問題がありました。

前輪用のホイールを後輪に付けるとトレッドが狭くなります。スペーサーを製作して前と同じトレッドにするのです。こうすると走行抵抗が少なくなり、スピードが出ますし、スペアータイヤは一種類で済みます。

これだけ壊れたホイールですが、タイヤの空気を抜き、ハンマーで叩いて修理完了。心配なのでフロントの足回りを点検したのですが、衝撃のエネルギーをホイールだけで吸収してくれたので、問題ありませんでした。

2枚目の写真は山田さんが名前を付けてくれた「スガワラ峠」で写しました。まだ生きているのに私の名前を付けてくれた山田さんに感謝、感謝です。

話は違いますが、今回の「北海道4デイズ」で感じたのですが、パンク道具を持っていても虫回しを持ってない人が多く居ました。虫にも凄いメカニズムを感じますよ。

あの場所を回すのには、専用の虫回ししか出来ません。私のバイク、四輪、トラックには全部の車輪に虫回しを付けてます。専用工具も売ってますが、タイヤに直接付けるタイプをお勧めします。

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No.019「タイヤの空気圧」- 2009/07/24 菅原さんからの手紙

letter_019_20090724-01我々のトラックには、CTIS(セントラル・タイヤ・インフレーター・システム)

と言うシステムが付いており、車内から走行中にタイヤ圧の増減が出来ます。

システムとしては1輪づつや、前輪や、後輪と別々にコントロールできるのですが、複雑になるので、我々のは前後輪を同圧にして、圧も車内で確認出来るようにしております。

一枚目の写真で分かるように、接地面の変化を見て下さい。

空気圧を変える事でこんなにも違うのです。見た目には接地面が横に広がるように思いがちですが、実際は縦方向に広がります。

ナビさんがコマ図を見ながらや、状況に応じて1日に何十回も調整してくれます。砂丘地帯でエアーを抜き、適正値になるとスピードが上がってきます。

砂丘などでスタックしたら0.8kg/cmまで落としますが、タイヤが発熱するので最高速と使用時間が制限されます。

2枚目の写真は、何時もお世話になっている北日本自動車大学校でレンジャーを持ち込み生徒さん達に空気圧と接地面の変化を実際に見てもらう授業のシーンです。

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No.018「N 47°53` 24. 67 E 00°16` 07.70」- 2009/07/10 菅原さんからの手紙

letter_018_20090710-01久しぶりにグーグルアースで我々TEAMのフランスの工場を見てみました。以前までは、ムルサンヌ位から画面が荒めになり、とても見づらかったのですが、何と更新されておりました。

表題の緯度経度に何と以前「菅原からの手紙」に書いたゲルが写っています。恐ろしい時代になりましたね。工場の前には、ある人からお預かりした4トンの白い幌のトラックがあり、ゲルの右側にはブルーシートで覆われたトラック用のタイヤがあります。南側の工場に面した道路名はRue de Bel-Airという道路で、日本語で「きれいな空気の道」です。

こうして空から見るとフランスの家は縦に長いのが良く判りますね。車を運転しながらでは、こんなに奥が深い事は判りません。

この緯度経度を見ていると色々と考えさせられます。まず、緯度ですが東京の我が家は35°なのでルマンの工場は12°も北にあります。東京と比べると直線で約1300キロも北になるので、サハリンになります。経度で言うと0°なのでグリニッチ天文台のほとんど真下になりますね。

「N 47°56`50.78  E 00°13`24.53」を見て下さい。
ルマンの競馬場の中の碑が見えます。この碑はライト兄弟のお兄さんのウエルバーライトさんがヨーロッパで初めて飛行機を飛ばした記念の碑です。

何と右にある丸い物体は石です。この石をやぐらの上から落として、その勢いを利用してグライダーのように飛び立ったようです。

当時、飛行機を飛ばせる広い場所は競馬場だったのですね。
写真の説明です。
工場の内部とこの写真は工場の奥の部屋にあるバイク専用の整備場で働いてくれてるのは、新しいつなぎを着て頑張ってるカイザーさんです。

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No.017「ホイールのお話です」 2009/07/03 菅原さんからの手紙

letter_017_20090703-01まず鉄ホイールの内側を見て下さい。(写真:一枚目)各スタットボルトの外側に2ヶ所触っている痕があります。内側は錆びと汚れで見にくいですが線状に黒く当たっている痕があります。ナットが締まる場所は浮いているのです。

これしか、とまってないのです。鉄ホイール自体にメカニズムを感じますね。そんな訳で私のジムニー(ラリーレイド・モンゴル仕様)はあえて鉄ホイールを使っているのです。

最初にタイヤに衝撃が入り、リムに伝わり、足回りに伝わるのでホイールをヒューズにしている訳です。車の持っている特性以上の入力が入るとリムが変形して教えてくれます。

次はアルミのキャストホイールです。(写真:二枚目)完全に面あたりをしていますね。車両の運動性能を上げるのには良いのですが、昔4輪でのレースでも使用していましたが、ストレスはスタットボルトにくるので定期的に交換が必要でした。(レースではホイールの脱着が多かったので)

次は来年のTBI用にスペアーとして新しく組んだXR230の前輪です。(写真:三枚目)オフを走る事を前提としているのでスポークですね。

こちらにも弾性があり、オフには適しているのですね。

全てに長所と短所があるのですが、プライベートでやるには何処を壊すかが難しい選択になります。車は壊れるのではなく、ドライバーが壊していると思った方が正しい事が多いのです。

 

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No.016「ニューヨーク・パリ」 2009/06/25 菅原さんからの手紙

letter_016_20090625-01北京‐パリが行われた翌年1908年2月に「ニューヨーク・パリ」が行われました。

講談社発行の20世紀全記録によるとアメリカからはトーマス・フライヤー1台、ドイツからプロスト1台、イタリアからジェスト1台フランスからはド・デイオン・ブートンとシゼール・ノーダンとモトブロックの3台、合計6台が20.000キロ先のパリ向けてタイムズスクエアを出発したそうです。ニョーヨークでは25万人を超えるの群衆であふれかえったようです。風力を利用出来るようにマストと幌を用意している車両や雪原をソリで走れるように用意している車もありました。我々とは違うのは銃の用意もあったようです。

結果は5ヶ月後の7月26日にトーマス・フライヤーの優勝が決まります。前日にドイツのプロストが到着したのですが、アメリカで1.600キロも汽車に乗せたのが判り、15日間のペナルティで2位だそうです。完走したのは前記の他にイタリアのジェストの3台でした。シゼール・ノーダンは1気筒で15馬力だそうで、驚きですね。

10年ほど前に日野自動車さんの本社で私の講演があり、この話をしました。終わったら当時の重役さんが来られて、今日のお話はとても面白かったとほめて頂きました。お話をお聞きしたら、1ケ月前にアメリカでトーマス・フライヤーの運転をしていた方のお孫さんを訪ねてお話を聞いたそうです。上には上があるものですね。

当時の大阪朝日新聞によると、5月12日の夕方に神戸オリエンタルホテルに到着とあります。翌日の朝6時に出発して、午後には京都ホテルに到着。同行しているニューヨークタイムスの記者に取材をするのですが、日本の景色の良い所を自動車で走るのはとても愉快だと言っています。取材の中に「世の中に危険ほど面白いものはない」と話し、極めつけは、ロッキー山脈に到着した時に十数マイルの鉄道の長いトンネルに差し掛かり、「なーに構うものか、やっつけろ」とトンネルに入って行ったそうです。トンネルを抜けて線路を走り、145分後に一般道に合流したら、すぐに汽車が来たそうです。トンネルや線路は単線だったでしょう。

「京都を出て大津街道を東に向かい石山を経て米原に向かひたり」となっており、日本にはその10年前にフランスから初めて自動車が輸入されたそうなので、使用するガソリンなどはどうしたのか心配ですね。

写真はコースの全体図と明治41年5月14日の大阪朝日新聞とトーマス・フライヤー

長男がアメリカのRENO市の博物館で写真を撮ってきてくれました。ヘッドランプはガイ燈の様で、チエーンドライブ、新聞記者と審判員も乗せていたので4人乗りです。優勝トロフィーの大きいのにはビックリです。

パリのゴール地点の写真も写っていますが、何処か、山田さん教えて下さい。

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No.015「肺気腫」-2009/05/28 菅原さんからの手紙

letter_015_20090528-01呼吸器で有名な先生が、私の肺のレントゲンの映像を見て「肺気腫」ですね。と言いました。!!!???

次回のダカール・ラリー参加に日野自動車さんのお許しが出たので、近所の掛かり付けのお医者さんに行き、呼吸器を徹底的に調べて欲しいとお願いしたらお友達で呼吸器専門の良い先生が居るよと言って、紹介状を書いてくれました。更に近くの医師会に行きなさいとの事です。指定の時間に行くと、ヘリカルCT検査と痰を3日連続で取り、提出しなさいとの事です。この結果は2週間後に最初の先生の所に報告が行きます。

別に紹介状を持って大きな病院に行き、レントゲンを撮り、その結果の病名が「肺気腫」です。先生に治りますか?と聞きました。答えは薬を使って進行を止める事ができます。とのお話です。「実は私は現役でラリーをやっているのですが」とお話すると先生はカルテを見直して「ダカールの菅原さん?」「ハイ」と答えました。

先生は別に肺活量と肺の圧力を測ってくるようにと言われ、別な場所に移動して計測です。結果を持って先生に診てもらったら、肺活量と圧力は常人以上にあるので今後、何もしないで今までの生活を続けて下さいとの事でした。薬も不要です。

先生は最近ランサーを買ってラリーに参加するとの事です。

帰宅してすぐに、御礼状と今年のラリーのDVDをお送りしました。

1週間後に先生からお手紙を頂き、内容は「早速、家内(昔ご主人のナビをやっていたようです)と一気に見ました。菅原さんはラリーをやる事で自分からアドレナリンを出しているので、それが医学的にも元気の素だとの説があります。」との事でした。

今日は最初にお邪魔した先生の所へ結果を聞きに行きましたが、ヘリカルCTと痰の検査と紹介頂いた先生の全部の結果は、何も心配がないので、タバコも無理にやめる事は無いとのお話でした。

実はやめる決心をして、禁煙補助薬を買って用意していたのですが、ビールを飲みながらマルボロを吸いながらのお手紙です。

写真は今年のゴールで頑張ってくれたナビの羽村君とのショットです。

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No.014「ビバーク」- 2009/05/18菅原さんからの手紙

letter_014_20090518-01写真は2006年の我々チームの陣取りです。

先発しているメカさんを乗せたランクル2台と日野の6輪駆動車のFUが我々選手よりも早くに出発して、陣取りをします。

これが難しいのです。現地での風の向きや、食堂に近いとか、他のチームに場所を取られていたりで、大変なようです。

何せ縦20メーター横30メーターの場所を確保して同じ配置でセッティグをしてくれています。我々は遅れてキャンプ地につくので、到着時刻を前読みしてメカさんがキャンプ地の入り口で待っていてくれています。メカさんを乗せて指定の場所に移動します。

6輪駆動車の左にはレンジャーの1号車と2号車が並んで整備をして頂きます。右側では今年は、青木選手の車両とカイザーさんのお客様の4台が並びます。

夜になると両方に照明が付き、電動工具や、エアーが配置されて、FUの左のテーブルにはお湯が沸かされカップヌードルやごはんが供給されます。メカさんが朝まで仕事をしている時はお夜食も出ます。私はミーティングの後はすぐにグリーンで示されているテントに入り、都はるみの小樽運河などを聞きながら熟睡ですが、ナビの皆さんは予習があるので朝の03時頃にテントに入ってきます。

そんな訳で同じようにセッティグされているキャンプ地に毎日、着くので、何処にいたのか記憶にありません。これは年のせいもあるのでしょうか。?

来年のコースを予想しており、テルから聞いたのですが60パーセントしか理解ができませんでした。こまったものです。

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No.013「北京−パリ」- 2009/05/12 菅原さんからの手紙

letter_013_20090512-01 1907年6月10日にスタートしたと本に載っています。今から102年も前です。本によると翌年行う予定のニューヨーク-パリの予行演習だそうです。(翌年、実際に行われて、神戸から敦賀に抜けて行きます)

各自、自由なコースどりで最も早くパリに着いた者が勝利者になるとの事で、右の写真は出発して11日目、モンゴルのウルガ(今のウランバートル)で地元の高官を乗せた写真です。優勝は1903年にイタリアで創設された自動車会社のイタラ号で60日間掛って8月10日にパリに到着。2位と20日間の差をつけたそうです。

事務局は大変だったでしょうね。

面白いのは、同年の4月に国産初のガソリン自動車「1837cc、12馬力のタクリー号」が完成(プラク以外は国産)し、麹町から多摩川の往復48kmを走ったそうです。

車を作ったのはそんなに遅れを取ってないのに、考え方が島国的で世界に飛び出せなかった様ですね。今もあまり変わってないかもです?

1903年12月17日にライト兄弟が42秒、36メーターを飛び(人類初)、翌年には我々のガレージがあるルマンでお兄さんのウエルバーライト氏がヨーロッパで初の飛行をします。1905年にフランスでスイス人が作った26,400ccの車で時速156.5KM/Hの世界記録を出したそうです。

この時代の人達には脱帽ですね。

山田さんはランクルで私はレンジャーで1992年の9月1日にパリをスタートし、北京に着いたのは9月29日でしたね。その時、NHKのテレビ報道があり、随行してレポートしてくれたのが中島さんで「クローズアップなんだい」を寄稿してくれており、不思議なご縁を感じております。

参考文献「20世紀全記録」より


著者紹介 菅原義正氏

No.012「パルクフェルメ」 2009/04/23 菅原さんからの手紙

letter_012_20090422-01「閉ざされた駐車場」の空撮です。我々の人検と車検は2008年12月31日の午前10時45分から始まります。

チームはこのブエノスアイレスから80キロ北に行ったサラテと言う小さな町に滞在してトヨタアルゼンチンのご厚意で12月中旬から工場の一角をお借りして、最終整備をしておりました。

車検会場に向けてサラテを午前6時に出発です。日野の6輪駆動車1台とメカさんをお乗せするランドクルーザー2台とレンジャー2台の合計5台のコンボイが動き出します。

ここからラリーは始まっており、指定時間に遅れたら1分毎にペナルティーが付きます。慣れてない町での移動はとても危険が伴います。これを無事にこなさないといけないのです。

我々チームは生れて初めてのブエノスアイレスの空港に着いてすぐに、誰の案内も無く、レンタカーで予約していたホテルまで移動しました。今はグーグルアースと言う便利なソフトがあるので、事前にGPSポイントを入力しての移動ですが、一方通行や交差点の信号の位置や道路標識が各国違うので大変です。

この国はスペイン語なのでパーキングは「E」で示してありましたが、私の記憶ではスペイン本国でも「P」を使ってたと思うのですが………

そんな事を考えながら無事に一発でホテルを見つけました。海外ラリーでは、ここが一番大切な部分なのです。パリダカで何回も優勝したヌブーさんやガストンさんやファラオ・ラリーの主催者のフニイさんも成田からレンタカーで我が家には来ません(来れないのです)。今はレンタカーにはカーナビが付いてますが、たとえ付いていても読めないのです。山田さんが日本語だけのコマ図でラリーをしたら外人は誰もゴールに辿り着けないでしょう。

そう考えていると日本人は凄いと思います。「昔のコマ図は全部フランス語だけでしたね。」人検と車検を無事に終了した順番にパルクフェルメにゼッケンを付けてもらい駐車しました。そんな訳で全ての検査が終わった2009年1月2日の空撮でしょう。

翌日から本格的なラリーが始まり、リエゾン(移動)は196キロ、その後SS(競争区間)は371キロ、その後のリエゾンは166キロ、合計733キロと競技が始まります。

3年程前までは私の事を主催者が認めてくれて、カミオンクラスのゼッケンは1番目の500番をくれてましたが、他の参加者からクレームが付いて、前年の成績準でゼッケンを決めるようになりましたが(バイクや4輪クラスは以前からやってます)、昨年の成績ではテルが上だったのですが私は511番、テルは513番でした。

写真の左側から下の方に向けてゼッケン順番に並んでます。カミオンだけで81台もの参加でした。


著者紹介 菅原義正氏

No.011「トムチェックさん」- 2009/04/14 菅原さんからの手紙

letter_011_20090414-01我々の仲良しのトムチェックさんの車両です。彼は毎年、チェコからチェコ製のタトラでダカールに出てきます。人柄はとても温厚です。車両のエンジンは純正で空冷ディーゼルのV12気筒で20,000CCもあります。

このエンジンを使っているのはブラジルから出ているアゼベトさんだけて、何時も良い成績で走っているタトラのロプライスさんは別なエンジン〔水冷のV8〕を使ってます。タトラは四輪ともインデベンデントでエアーバックを2つ、Vの字にフレームに固定して、カンチレバでドライブシャフトを支持しており、バネ下重量を軽減しています。タトラの歴史は日本の50年も前からカミオンを作ってます。

4年ほど前にスペインでのSSでブレーキが加熱して、下り坂で効かなくなり、左の山に登ったのですが、そのまま落ちて来て、コースを完全に塞いでしまいました。すぐ後ろに我々が居たので右側のガケを降りていってゴールしたのですが、後続のカミオンは降りることが出来ずに、このステージはキャンセルでした。テルも2号車で出ていたのですが、皆で戻ったとの事です。

今回のアルゼンチンにも出てましたが、運転はとても上手なのですが、頑張りやさんなのですね。初めの頃に轍に取られて転倒してました。その後、挽回をしようと頑張ったようです。後半のSS中に下りに舗装路が出てきました。下り終わった所は右の急カーブです。なんと下を見たら彼の車が真っ直ぐにガケの下に落ちてました。

テルは私より先に居たので現場に遭遇したそうです。テル曰く、最初に救出したのはカマズのカビロフさんでテルも現場で救出のお手伝いをしました。ナビはテルにヘルプアスと言ったそうです。

ドライバーのトムチェックさんはロールバーに挟まれ身動きが出来ません。皆でロールバーをトラックで引きトムチェックさんを救出したようです。

そんな訳で人命救助をしたので、テルやそこにでお手伝いした車両には時間のペナルティが付きません。これもダカールの良いところですね。

下りだったので140km/hで曲がり切れずに転落です。写真で判りますか゛、サイドバーも切ってキャンプ地にナビが運転して帰ってきました。トムチェックさんはヘリで運ばれたようでリタイヤでした。

今回、気が付いたのですがアルゼンチンの砂丘地帯は冬には雪が降ります。アフリカの砂丘は雪や雨が降りません。

考えてみるとモンゴルの砂丘地帯も冬は雪が降るのです。

このあたりをしっかりと頭に入れて次回の大会に望みたいと思ってます。


著者紹介 菅原義正氏

 

No.010 「自分に投資」- 2009/04/02 菅原さんからの手紙

letter_010_20090402-01写真は1984年のパリダカでの勇姿?です。車両はホンダXL400Rです。

一年前の反省を教訓に改造や改良をしています。ライトを2ケにする為にダウンフェンダー、前年転んで骨折したのでバンパーを付けて、その枠内にオイルクーラーを取り付け、パリからマルセーユまでのリエゾンは約1000kmを走るのですが、真冬の寒さなのでハンドルのカバーやフェイスマスク、ウエアーは「クシタニ」さんが特別に作ってくれました。袖にはタイムカードを入れるポケットも付けて頂きました。

当時はパリダカ以外にラリーレイド方式の競技はなかったので、すっかりハマッテしまいました。エンデューロ形式の競技は何時間走ってもスタートとゴールが同じですが、スケールが違います。

車両の製作や車両の輸送、外国での車両の受け取り、最終チェック、当時はホンダさんのベルギーの工場をお借りしていたので、ベルギーからパリの車検場までの自走、そして車検、今は英語の案内がありますが当時はフランス語だけで困りました。係員がサポートカーのドライバーのライセンスがだめだと言っていたのですが、エッソンス〔ガソリン〕と聞き違い、ノープロブレムと返事をしました。

マルセーユに着いて、同じ係員がライセンスはどうなった? と聞いてきたのでそこでも私の返事はノープロブレムです。係員はこれはだめだと思ったのかそれ以来なにも話しかけてきませんでしたが、良く考えるとライセンスの事だったのでした。そんなこんなの連続で今考えると不要な支出など結構ありました。

今は違います。コマ図の練習もできるTBIや必要以上の手間や出費が抑えられて楽しめるラリーモンゴルリアなどがすぐ手の届く所にあるからです。

費用は掛かりますが、こんな時代だからこそ自分に投資するのも良いと思います。

現地では6ケ国語が飛び交って、面白いですね。


著者紹介 菅原義正氏

 

No.009 「ダカール2010」- 2009/03/27菅原さんからの手紙

letter_009_20090327-01先日、主催者から次回の大会もアルゼンチンとチリで行うとの発表がありました。

モータースポーツが大好きな両国の皆さんに見て頂きながらのラリー参加は意義のある事だと思ってますが、有刺鉄線〔写真参照〕に囲まれた場所を走るのはチョットです。今回あまり報道されてませんがキャンプ地の環境の悪さや毎晩の食事のまずさ、無理なコースの設定、毎晩出されるリザルトの遅さ、などなど問題が山積みです。

でも、発表があった以上、こちらも対策をしなければなりません。現在進めているのは、フランスの工場にあるスペアーパーツを日本に向けて発送の準備をしております。1.000点近いパーツの選定とリストの製作、そして港までの搬入など大変な作業でコンテナー1本になるとの連絡が入りました。

今回は2台ともデフレンシャルに問題が出ました。今までには無い問題です。エンジンを後ろに移動したので前後共、プロペラシャフトの長さが変わっていますが、取り付け角には問題が無いと考えてます。他の参加者も同じような問題を抱えているようです。そうなるとタイヤの空気圧も考えられます。

我々の車両にはCTISと言う装置が付いており、走行中にタイヤの空気圧を自在にコントロール出来るのですが、SS〔競争中〕での設定に問題があるかも知れません。アフリカでのデーターがあるのですが、今回は初めての大地でした。

タイヤの空気圧はとても大切で、地面から最初に受ける衝撃などはタイヤから入力が入り、その後にサスペンションに伝わり、車両のフレームに伝わります。

どちらにしても、原因の追究が必要なのですが、まだ出場車両は日本に着いてません。フランスから出た参加車両は2月26日にはルアーブルに着きました。

この辺りも、ハンデです。次回に向けて色々と動いてますので、応援下さいね。

私とスー(鈴木)さんは御殿場の工場でラリーモンゴリアのカミオンバレーを製作中です。バイクは4台積めるように作ってますが、参加者の皆さんはお世話にならないで下さいね。出来上がったら写真をアップします。

ジムニーの作業は止まったままなので、こちらも心配。先日、松山へ行った時のウラル・サイドカーのミッションを外して修理依頼予定ですが、新しいウラルのミッションを外すのも手こずりスイングアームまで外しましたよ。


著者紹介 菅原義正氏

No.008「コロンビアの新しい仲間」- 20090319菅原さんからの手紙

letter_008_20090319-01写真を見て下さい。右から2人目がガスタボさんで左前がアンドレアさんです。

彼達が今度、山田さん主催のモンゴル・ラリーに出場します。ガスタボさんはお兄さんで、アンドレアさんが弟さん、兄弟とも車が大好きです。それにしても良く似ていますね。モンゴルではガスタボさんがドライバーでアンドレアさんがナビをするようですよ。

写真の場所はお兄さんの別荘での昼食です。山の中腹にあり、入り口にはガードマンがおり、そこから何キロも走った所に別荘がありました。コックさんと給仕さんがおり、週末になると奥さんと過ごし、ご主人は隣接しているガレージで旧車のレストアをしているそうです。レストアの終わった車が10台位ありました。

先日、日野さんの社長さんとお話したら奥さんも別に別荘をお持ちで、ご馳走になったそうです。ポルシェ356のエンジンを取り替えるのに奥さんも〔一番右側の方〕お手伝いするそうです。大変でしょうと聞いたら「女遊びをされるより、この方がいいわよ」と言っていました。

我々の廻りに、耳の痛い人がどこかに何人か居そうですね。

山田さんが主催しているラリーにはモンゴル、ドイツ、オランダ、フランス、ベルギー、ロシア、カナダ、そして南米のコロンビアからも続々新しい仲間が集まってきます。

一参加者として、とても嬉しい限りです。

モンゴルのラリーが終わったら、彼のガレージにラリープレートが一枚増える事でしょう。

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著者紹介 菅原義正氏

No.007 「三脚」- 菅原さんからの手紙 – 2009/03/12菅原さんからの手紙

letter_007_20090312-01先日、山田さんが書いていたフランスのミトンさんのカーブの写真を添付しますね。この写真はかなり昔の絵葉書です。座って居る椅子に注目して下さい。全部、三脚です。

ミトンさんは私に昔のお話をしてくれました。彼のカーブの入ってすぐの右側に小さな暖炉があります。左側には高さ30センチ位の小さな三脚の椅子がありました。 この椅子は先祖から引き継いで居るのでスガワラ以外は座ってはいけないと言っていました。昔のカーブは女人禁制だったそうです。写真にも女性は写っていません。

畑仕事を終わった男連中が家に帰る前に、カーブで一杯やっていたそうです。結構、下品な話で盛り上がっていたようですよ。暖炉の上には今は使っていないお皿やナイフ、フォークが沢山ありました。お肉やお魚を持ち寄って暖炉で焼きながら白だの赤だのとやっていたのでしょうね。

三脚の椅子の座り心地は下が水平ではないのですが、とても安定していました。昔の人の知恵を感じました。

私の母を連れて行った時の事です。たぶん10名位居たと思いますが、それぞれの生まれ年のワインを開ける事になり、80歳の母の生まれ年のワインが開けられました。何も防腐剤を使っていません。驚きました。

テイストはアルコール分が抜けており、ジュースのような味だったのを覚えています。この事をパリの友人〔ホテルリッツの支配人〕にお話したら、そんなの聞いた事が無いと言っていました。

カーブには今も電気を引いて無く、全部ロウソクです。電磁波を嫌うと言っていました。大きな声を出すとワインの目が覚めるので静かにするようにとも言われましたよ。

前に進む事も大事ですが、昔からの事を大切にする事も必要だと感じました。

ミトンさんの本名は Remy Roguet でチュニジア・ラリーやファラオ・ラリーを立ち上げたフニュイさんの本名は Jean Claude Morellt で小説家でもあります。

世の中判らない事ばかりですね。


著者紹介 菅原義正氏

 

No.006 「あいまいな規則」- 2009/03/05菅原さんからの手紙

letter_006_20090305_01ファラオ・ラリーの車検がスペインの近くの港で行われた時です。

この時は2台のパジェロを出場させました。車検は2レーンで行われ、1レーンに並んだパジェロは無事通過、2レーン目の私の車は車検落ちです。理由はフロントバンパーは純正の鉄製でないとだめだと言っています。

同じアルミ製で作ったバンパーを付けた、もう一台は無事に通過しており弱りました。田舎の港町なのでディーラーもありませんし休日です。早速、表の通りに出てパジェロが走ってないか探しに行きました。しばらくしたらパジェロに乗った旅行者が来ました。車を止めて訳を話したらOKとの事、その場でアルミ製バンパーを相手の車に取り付けて、純正の鉄のバンパーをゲットし取り付けて車検をパスさせました。

旅行者は喜んでいたようなので、お礼のつもりで私の名刺を渡しておいたのですが帰国後に請求書が届き、純正バンパーの代金を支払う羽目になりました。

アルミのバンパーは帰って来ませんでしたよ。


著者紹介 菅原義正氏

No.005 「鯉のぼり」- 2009/02/26菅原さんからの手紙

letter_005_090226_01 私が4輪に転向した1985年〔第7回大会でパリ・アルジェ・ダカール〕には2台のパジェロと1台のデリカ〔4台のバイクのサポート〕を出場させました。この年は夏木 陽介さんが我々チームに来てくれ、私は彼のナビでの4輪デビューでした。チームの3台がすぐに判るようにとルーフに鯉のぼりを付けたのが最初です。砂漠にはいない魚〔ジョーク〕、日本の文化を知らしめる意味も込めました。

その後、ルーフに鯉のぼりの他にグラスファイバー製のサンドラダーを4枚付けて走ってました。サンドラダーを室内に入れるとスペースが無くなり、使った後は砂だらけになるので、ルーフに取り付けると走行風や振動でセルフクリーニングにもなりグッドアイデアでした。

1990年〔第12回大会、パリ・トリポリ・ダカール〕の車検に行ったら、規則が変更になり、ルーフには一切何も付けてはいけないと車検員から言われ、しぶしぶサンドラダーを室内に入れて、鯉のぼりも外す用意をしていたら、「それはスガワラの象徴だから特別に許す」と言われ、びっくしました。もし、これが日本だったら規則だからと言われ外されるでしょう。フランス人のあいまいさに感謝です。規則にはあいまいな部分が必ずついており、その判断を係員に任せているのも凄いと感じました。

それ以来、プロト以外の車両は生産されたシルエットを守り、何も付けてはいけなく、私だけが許される事になりました。ある年、SS中に広い場所で4輪が数十台止まってました。行く方向が判らないようです。

早速、車から降りてバイクの轍を調べました。バイクの轍を良く見ると進んでいる方向が判ります。たどって見ると近くの森の中に入ってました。

他の参加者にばれないように、自分だけその森に侵入し、ルートを見つけてキャンプに帰ってきたら、フランス人のボカンデさん〔篠塚さんの最初のナビをした人です〕が私の所にお礼に来たのです。

「スガワラありがとう、君のコイノボリが森の入り口の木に引っかかってたので、ルートが見つけられたが時間が無かったので拾って来れたかったのでゴメン」と言ってました。

屋根を見たらコイノボリが付いてませんでした。

高知県高岡郡四万十町では毎年500匹のコイノボリの川渡しが行われます。ちょうどTBIの時期です。川渡しの発祥の地でもあり、今年も見れるか楽しみです。

今回のダカール2009では思った以上にカミオンクラスのテレビ放映があり、コイノボリのメーカーからお祝いに色々と商品を送って頂きました。TシャツもあるのでTBIに着ていきますね。


著者紹介 菅原義正氏

No.004 昨年、雑誌「プレジデント」に載りました。- 2009/02/19菅原さんからの手紙

letter_004_20090219-01人との出会いがとても大切だと思っております。彼のアイデアで5月人形や皇太子ご夫妻をイメージした、雛人形も商品化しております。日本の文化がリアドロに反映している事が嬉しくて写真のお人形を衝動買いしてしまいました。

当時、フランスには徴兵制度があり、彼は軍に所属したのですが、フランスの有名な宝石店「メラリオ」のお店を日本に展開する使命を受けて、たった一人で来日したのです。当時、フランス語と英語しか話せないのに、北海道から九州まで5店舗をつくりました。もちろん給料は軍からの支払いです。彼は戦いが嫌いなので、その道を選んだのですがそのような選択肢がある、フランス軍には驚かされました。

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人間邂逅
ジェローム・シュシャン(リヤドロジャパン社長)
菅原義正(ラリードライバー、日野・チームスガワラ代表)

「ヒッチハイク」

もう25年は経つでしょうか。菅原義正さんと出会ったのは、私がフランスから初めて日本に降り立った日の翌朝、東名高速の入り口でのこと。当時まだ貧乏学生だった私と友人は、ヒッチハイクで旅することにしていました。北陸でお寺修行を体験しようと、「福井」と書いた紙を手に高速道路の入り口に立っていたのです。そこへ現れたのが、キャンピングカーを牽いた菅原さん。御殿場までなら乗っけてやると、いきつけの温泉に案内してくれたり、すき焼きをご馳走してくれました。

その後、北陸を回って東京に戻ってきましたが、帰国の前日は自宅に泊めてくれました。それから数年、社会人になった私が日本に赴任してくると、今度は家が見つかるまでの1、2ヶ月間、合鍵を渡して居候させてくれました。

初めに会ったのが菅原さんだったからこそ、私は日本を好きになったのです。

菅原さんはとことん現場にこだわり抜く人。私はどちらかというと頭の中でいろいろとアイデアを巡らすのが仕事。世代も仕事のやり方もまったく違う二人ですが、唯一共通するのが「チャレンジし続ける心」です。菅原さんはラリーで前人未到の記録を更新し続けていますし、私は日本独自の文化を世界に発信すべく、スペイン本社への提案を続けています。

来年、菅原さんがパリダカールラリー20大会連続完走の偉業を達成した暁には、お互いに家があるフランスでゆっくりお祝いしたいですね。(シュシャン)

PRESIDENT 2008.4.14より

PRESIDENT [HP] 


著者紹介 菅原義正氏

No.003 「ジオラマ」- 2009/02/13菅原さんからの手紙

letter_003_20090212-011991年のパリダカの時のことです。フランスの田舎町で行われたプロローグランでスタートを待っていたら日本人の旅行者が声をかけてきました。お話を聞くとパリダカのファンで、日本から見学に来たとの事です。

その年は日野さんが初めて挑戦の時で、弊社ではマネージメントをさせて頂き、私はパジェロでの出場でした。何年か後に、ある模型の雑誌を見ていたら「パリダカのジオラマ」が特集されており、その中のページにガストンさんがパンクをして修理しているシーンが再現されていました。作者の名前も出ていたので、編集部に電話を入れて住所を聞き、サハラの砂をお送りしましたら、その彼はなんとあの時のプロローグに来ていた人でした。その後、彼の友人のジオラマ作りのグループと知り合いになり、毎年我が家で壮行会や報告会と言っては飲み会が始まったのです。

山田さんが「ガストンライエ・ミーティング」を主催していた時にガストンさんが帰りに我が家に宿泊しており、彼が尋ねて来て、そのジオラマを直接プレゼントをしたのです。ガストンさんは大喜びでした。

今回、テレビ出演の依頼があり、何とかジオラマで表現できないかと彼に相談したら、すぐに東急ハンズへ行き、材料を買って家まで飛んで来てくれました。明日の朝7時にはスタジオ入りなので、訳を話したら彼は自宅のアトリエに戻り、徹夜で作り朝の6時に届けてくれました。一回の短い打ち合わせで忠実に作ってくれ、驚きましたし、視聴者の皆さんからも、あれは分かりやすかったとお褒めの言葉を頂きました。

ありがたいことです。

「DAKAR 2009 と Rally MONGOLIA」

letter_003_20090212-02DAKAR 2009は舞台をアフリカ大陸から南アメリカの大地に移して開催されましたが、走り終わっての感想は山田さんが主催しているモンゴル・ラリーの方が1000倍楽しいと感じました。

自動車競争の発端は100年以上にもさかのぼります。その時代に行われていたのは今のラリーレイドそのものだったようです。その後、形を変えてサーキットが出来、ツーリングカーや、はてはF-1までに発展するのですが、テリー・サビーネが自動車競技の原点に戻したのだと思っています。

この競技は移動する楽しみ、現地の人との出会い、冒険やロマン、バイクや自動車でしか出来ない深い意味が込められていると思っています。現在サーキットで行われる一番長いレースはルマン・24時間ですが一周13,629kmを24時間で一番長く走った人が優勝を掴みます。スタート地点とゴール地点は同じ場所です。私はこの競技自体にロマンを感じません。〔ルマン24には何回か観戦に行き、マツダが優勝した年も現場に居ました〕

今回のDAKAR 2009 のコースはSSのスタートから有刺鉄線で囲まれた農道を走ります。ある日は狭いくねくねとした山道がスタートでゴールまで景色が変わりません。砂丘とあるのですが、アフリカのと違い、砂山で斜めにしかアプローチが取れないので、横転しているトラックが何台も出ていました。

私がスタックした第5ステージでは、時間内に着いたのは自動車30台位とカミオンが10台位だったそうです。照と私が通過した後で、第2チェクポイントでこの先は大変だからと参加者を迂回させたのです。翌日のステージは第2チェックポイントで終了、故障などで次のビークまでアシスタントルートで行く事も許されたのですが、そちらを選んだ選手は4輪は200時間、カミオンは100時間のペナルティが付きました。

ウエイポイントの設定にも無理がありました。照が言っています。「富士山の頂上のお鉢の真下に行けと言っているのと同じだ」と。

危ないだけで、景色を楽しむ暇はありませんし、ビバーク地は鉄道の操車場の跡で埃だらけで、整備は線路の上でやる日もありました。

それに比べて、モンゴル・ラリーのビバーク地の素晴らしさ、冒険とロマンたっぷりのコース設定、きめの細かいオーガナイズ、などなど、競技ですが楽しく過ごせます。

次回は体験ツアーも企画されているようで、こちらも魅力的です。

一段落してらモンゴルに向けての車両作りが楽しみです。競争相手の尾上さんは用意を始めています。マケナイゾー  


著者紹介 菅原義正氏

No.002 「ボゴタで」- 2009/02/05菅原さんからの手紙

letter_002_20090205-01「ボゴタで」

ボゴタ市内を走っていると、写真のようなバイクばかりなので、日本で言うバイク便が沢山活躍しているのだと思っていました。運転手さんに聞いてみると驚きです。手榴弾を投げつけるのはバイクに乗った人が多いので、レギュレーションでライダーは全員ナンバープレートと同じナンバーをチョッキとヘルメットに書き入れなければならないのだそうです。BMW1200GSもホンダの中国製コピーの125も同じです。これではBMWのサバンナスーツを着ても様になりませんね。バイクでファッションを楽しむのは難しいお国がらのようですね。しかも後ろに乗る人は家族に限定されており、同じようにチョッキとヘルメットが必要です。

現在は誘拐事件など減っているそうですが、タクシー〔1000ccのヒュンダイ製で大きさは日本の軽自動車と同じサイズ〕には絶対に乗らないように注意されました。理由はどこかに連れて行かれて身包み剥がされるそうで日本は逆ですね。稼動した日野の工場見学をしたのですが。門番は拳銃と、ショットガンで固めていました。それに比べ旧市街に行くと昼からオカマや売春婦が無防備〔オッパイを出していました〕の姿で、我われを誘ってくれています。

次回はSSERのイベントはコロンビアでやると参加者は500人位になりますよ。

「帰国してテレビの収録」

1月29日にJ-SPOTSの収録がありました。呼ばれている選手はトヨタ車体からは監督さんと三橋さん、日野側からは私と照仁とチーフメカの中村氏です。完走した人しか呼ばれないのが現状です。頑張った増岡さんや右京さんや青木さんのお話も聞きたい人も居るでしょうが〔私が一番聞きたいのかも知れません〕現実は甘くないのですね。司会は毎日放映して頂いた独特のお声を持つケリーさん。報道で同行されたトーチュウの田村さんもご一緒です。一昨年はJ-SPORTSのスタジオでの収録で、背景はバーチャルでしたが、今回は何と渋谷近くのアルゼンチン・レストランを借り切っての収録です。バックにはアルゼンチンとチリの国旗も用意されていました。

カメラは3台もあります。料理はアルゼンチン料理で、現地での印象は不味かったので、チョットと思い頂きながらの収録が続きました。食べて見ると、何と美味しいではないですか?「地球の歩き方」のアルゼンチン編を持っていったので予習をしていたら、お肉が柔らかくて美味しいとの事でしたが、我々は安レストランしか行かないので、お肉の硬い事、全然話が違っていました。ラリーが終わってブエノスアイレスの高級レストランに日野さんの副社長にご馳走になりました。その時、私が注文したのはイカスミのスパゲッティです。あまりにも美味しくて一皿全部食べて、3時間後にはアルゼンチン・タンゴの有名なお店にご招待されていたのですが、何と不幸な事に自分のホテルに帰ったらトイレから出られなくなり、折角のご招待をお断りする羽目になってしまいました。

今回、収録したレストランのコックさんのお一人に「とても美味しかったよ」とお話したら彼はコロンビアのカリの出身だそうです。今回、初めてコロンビアを訪れて、首都はボゴタ、太平洋に近い街がカリだと知っていたので、色々と話が通じました。世界は広いので行ってなかったらカリと急に言われても想像もつかなかったと思います。

今回の旅で訪れた国の合計は60ケ国になりました。

このあとの放送予定
2月07日 J-SPORTSでの生番組に出演します。
2月08日 BS-i 21:00−22:00ダカールラリーの放映
2月11日 TV東京12:00−13:00 ダカールラリー
2月11日 J-SPORTS ESPN 21:00−22:30 総集編  


著者紹介 菅原義正氏

No.001 「再会」- 2009/01/29 菅原さんの手紙

letter_001_20090128-01ラリーのゴールのブエノスアイレスまで日野の副社長さんが飛んできてくれました。その副社長は課長時代に日野創立50周年記念としてパリダカ参戦を決めたメンバーのおひとりです。

ここまで来る間には、色々と問題が起こりますが、困った時には必ず出てきて助けて頂いている、我々にとってはとても大切な方です。

専務時代には札幌日野の役員も兼任しておられ、私が小樽生まれなものですから「いつかは一緒に(北海道に)行こうね」と約束していました。しかしそれも中々実現できないままでした。

2年ほど前に、食事をご一緒している時のことです。「コロンビアで工場を立ち上げる準備でボコダに行ったら、1991年〔日野さんが最初にパリダカに参戦した年〕に出場したミスレンジャーを大切に保管している日野の販売会社の社長がおり、古い車のコレクターで全部自分で整備をして実働する車両を沢山持っているので、機会があったら一緒に行こう。」と誘われていたのですが、なにせ札幌にもご一緒してないのに地球の裏側までは、とても難しいなと思っておりました。

ブエノスアイレスでの食事中に突然、副社長がここまで来たのだから、以前約束したボゴダへ、これから案内すると言い出したのです。私の航空券は安チケットでブエノスアイレスからアトランタ経由で成田行きです。副社長は同行していた本社の中南米営業の方に「すぐに菅原さんのチケットを新たに取るように」とお話になり、急にコロンビア行きが決まったのでした。

副社長と同じ便が取れなかったので、一人でリマ経由でボゴタに向かったのですが困ったことにイミグレの書類はスペイン語。リマでは航空会社が変わるのでバゲージがボゴダに着くようにお願いしたのですが、着いてみると私のバゲージは最後まで出てきません。ボゴダの日野の工場の住所を聞くのを忘れていており、こちらも心配です。

まずは一つづつ解決すべく、荷物の担当の部屋に行ったら、手違いでリマにあるとの事、明日には空港に来るので、引き取りに来るようにと言ってるようでした。インフォメーションに行って日野の住所を調べてタクシーで行こうと、表に出たら副社長が手配で、現地の日野の社長みずからお迎えが来ており、一安心。

そうこうしているうちに2時間、副社長の便が到着する時間になり、連れ立って現地のディラーへ向かうことになりました。

乗った車は完全防弾仕様のランクルです。ガラスは厚さが5センチもあり開閉が出来ません。バッテリーも厚い鉄板で覆われ、床、ドアーも改造して350キロ重くなっているのでサスも強化されています。標高も2500mなので特別にスーパーチャジャー付きです。

訪れた販社は公園のようなところです。日野の車両やダイハツ、トヨタ車が展示され、ど真ん中にはミスレンジャーがありました。折角だから私に運転させるので街を一周しようと言う事になり、約20年ぶりに運転しました。写真のように古くなったステッカーは作り直し現地のナンバーもゼッケンと同じです。この会社のおじいちゃんは1916年にフォード社から販売許可をもらってそうです。T型のセダンが625USドルと書いていましたよ。

写真:菅原さんはコロンビアで20年前のラリーカミオンに再会。


著者紹介 菅原義正氏